義経の都落ち
源平合戦のヒーロー、源義経(みなもとのよしつね)。平家との戦争で大きな功績をあげながら、直後に兄頼朝(よりとも)と対立し、ついに奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)で滅んだ生涯は、古来たくさんの物語や伝説を生み出してきた。県域にかかわるものについては、すでに「ひょうご伝説紀行――語り継がれる村・人・習俗――」のいくつかの紀行文でも紹介している。
今回とりあげた話は、文治元(1185)年、都にいた義経が、頼朝から刺客(しかく)を送られたためついに兄と戦うことを決意し、11月初めに軍勢を集めるため西国を目指して都落ちをした事実を基礎としている。
現在、尼崎市街地の東部にその名を残す大物浦(だいもつうら)は、「ひょうご歴史の道――江戸時代の旅と名所――」でも紹介したとおり、古代以来、瀬戸内海水運と、都へつながる淀川・神崎川水運(よどがわ・かんざきがわすいうん)との結び目として繁栄した港町である。ここを出航した義経一行が嵐にあって難破し、その後いったん行方不明になったことは、同時代の公家日記『玉葉(ぎょくよう)』にも記されている。
義経一行の難破が、平家の怨霊(おんりょう)のたたりであるとする話は、鎌倉時代前半に成立した『平家物語』でも記されている。ただし、『平家物語』は平家の滅亡を描くことに主題があり、義経の話はそれほど詳しくない。この話も、あらすじとして述べられるにとどまっている。
今回とりあげた話は、室町時代に成立した『義経記(ぎけいき)』をもとにして紹介した。『義経記』は、『平家物語』とは逆に、義経を主役として描かれた文芸作品である。また、この話では武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)が活躍し、怨霊を退散させているが、このように弁慶が重要な役割を演じるようになるのも『義経記』の特徴である。
用語解説
布引の滝と悪源太義平
この話と同様に、源平合戦を素材とした伝説として、義経や頼朝の兄である悪源太義平(あくげんたよしひら)を主人公にした怨霊話がある。舞台はこれも「ひょうご歴史の道」で紹介した神戸市中央区の布引の滝。悪源太義平は、源氏の棟梁(とうりょう)源義朝(みなもとのよしとも)の長男で、父義朝が平清盛(たいらのきよもり)と戦った平治の乱(へいじのらん)でも奮戦したが、敗戦後捕らえられ、清盛の郎党(ろうとう)難波経房(なにわのつねふさ)の手によって斬首された。
その後清盛は朝廷の実権を握るまでに上りつめ、現在の神戸市兵庫区内にあたる福原(ふくはら)に別荘をかまえた。そうしたころ、名所として名高い布引の滝(ぬのびきのたき)を遊覧した清盛一行の前に、義平の怨霊が姿を現した。清盛を守るために難波経房が立ち向かうが、怨霊の火の玉の前にあえなく敗れ、太刀(たち)をふりかざしたまま死んでいた、という話である。
この怨霊話の源流も、源平合戦を描いた軍記物の『平治物語』にある。『平治物語』は、鎌倉時代前半に成立したもので、伊丹(いたみ)の昆陽野(こやの)で難波経房が雷となった義平の怨霊に殺されるという話が載せられており、ここから発展した話と考えられるのである。
用語解説
秦武文の怨霊
もう一つ、尼崎を舞台とした怨霊話を紹介しておこう。紀行文「海からやってくるもの」でも紹介している沼島女郎(ぬしまじょろう)の伝説である。この話の前半に、土佐国(とさのくに=現在の高知県)に流された尊良親王(たかよししんのう)を追って、お妃(きさき)が尼崎から船出をする場面がある。ここでお妃は海賊にだまされ、お供をしていた秦武文(はたのたけぶん)という武士から引き離されて連れ去られてしまう。だまされたことに気づいた秦武文は大急ぎで小舟に乗って海賊船を追いかけるが、ついに追いつけず、無念のあまり海に飛び込んで自殺してしまう。その後、海賊船が鳴門海峡(なるとかいきょう)にさしかかったところで、大嵐とともに海から武文の怨霊が現れ、これを恐れた海賊がお妃を小舟に乗せて放す、という話である。
これは、南北朝の内乱を描いた軍記物『太平記』に見えるもので、江戸時代の名所案内類にもよく載せられている話である。かつてはよく知られていた尼崎の伝説の一つであった。
用語解説
敗者の鎮魂
ここでは、いずれも争いに負けたものが怨霊となって勝者をおびやかす伝説を紹介した。いつの世も、敗者の怨霊はたやすく放置できない深刻なものであった。「ひょうご伝説紀行――語り継がれる村・人・習俗――」の「道真の旅」で紹介した菅原道真(すがわらのみちざね)伝説もこうした心情から生まれたもので、敗者の霊を慰め、逆にその霊威によって守ってもらおうとの願いが天神信仰として広まっていったのである。
中世には、源平合戦をはじめとして、多数の敗者が出る内戦が断続的に繰り返された。つぎつぎと生み出される敗者への鎮魂は、その時々の政府にとっても重要な政治課題であった。源平合戦の後、朝廷は高野山の根本大塔(こんぽんだいとう)に荘園を寄進するなどして平家の霊の供養に努め、南北朝内乱においても、室町幕府は諸国に安国寺(あんこくじ)を建て、戦没者の慰霊を行っている。
そして、敗者の戦いのありさまを語り伝えることも、そうした鎮魂の行いの一環としての意味を持っていたようだ。『平家物語』などの軍記物は、それを語ること自体に、敗者への鎮魂という性格があった、という説も有力である。
歴史の中では人々のさまざまな考え方が変わっていく。しかし、こうした敗者への畏れについては、程度の差はあるが、現代の我々も持ちつづけているのではないだろうか。