源義経(みなもとのよしつね)

1159―89。源義朝(みなもとのよしとも)の九男。平治の乱(1159年)で父が敗死した後、鞍馬山(くらまやま)に預けられるが、後に脱出して陸奥国平泉(むつのくにひらいずみ=現在の岩手県平泉町)へ向かい、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護を受けた。

治承4(1180)年に兄の頼朝(よりとも)が挙兵すると平泉を離れてこれに合流する。寿永2(1183)年末に兄の範頼(のりより)とともに頼朝の代官として軍勢を率いて出陣し、翌年1月に源義仲(みなもとのよしなか)を討ち取る。ついで同年2月には一の谷の戦い(いちのたにのたたかい=現在の神戸市)で平家に壊滅的打撃を与えた。翌元暦2(1185)年2月に讃岐国屋島(さぬきのくにやしま=現在の香川県高松市)で平家を破り、続いて3月に長門国壇ノ浦(ながとのくにだんのうら=現在の山口県下関市)で平家を滅ぼした。

しかしその直後から頼朝との対立が深まり、文治元(1185)年11月に西国へ向けて都を離れるが、大物浦(だいもつうら=現在の尼崎市)付近で嵐のために遭難、以後陸奥国平泉へ逃れて再び奥州藤原氏の庇護を受ける。しかし、秀衡没後の文治5(1189)年4月、頼朝からの圧力に屈した藤原泰衡(やすひら)によって殺害された。

 
源頼朝(みなもとのよりとも)

1147―99。源義朝(みなもとのよしとも)の三男。平治の乱(1159年)後捕らえられ、伊豆国(いずのくに=現在の静岡県東部)に流罪(るざい)となる。治承4(1180)年8月、反平家の兵を挙げ、同年末には鎌倉を拠点とする地方政権を確立した。

寿永2(1183)年10月には東国の軍事支配権を朝廷から認められ、ついで弟の範頼(よりのり)、義経(よしつね)を西国へ派遣して源義仲(よしなか)や平家との戦いを進め、元暦2(1185)年3月の壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平家を滅亡させる。同年11月には、反旗を翻した義経を逮捕するためとの名目で、全国に守護・地頭(しゅご・じとう)を置く権限を朝廷に認めさせる。さらに義経を庇護する奥州藤原氏に圧力を加え、文治5(1189)年にこれを征服した。

建久3(1192)年7月に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命される。晩年は娘を天皇の后としようとするなど朝廷への影響力拡大に努めたが、病を得て建久10(1199)年1月に死去した。

 
平泉(ひらいずみ)

現在の岩手県平泉町(いわてけんひらいずみちょう)。平安時代後半に東北地方で勢力を広げた奥州藤原氏の本拠地。11世紀末~12世紀初めに、奥州藤原氏初代の清衡(きよひら)が本拠をこの地に移したとされる。藤原氏の居館として柳之御所(やなぎのごしょ)、加羅御所(からのごしょ)などがあり、初代清衡の中尊寺(ちゅうそんじ)、2代基衡(もとひら)の毛越寺(もうつうじ)、3代秀衡(ひでひら)の無量光院(むりょうこういん)など、歴代の当主が造営した大寺院が甍(いらか)を並べていた。

 
大物浦(だいもつうら)

現在の尼崎市街地東部。淀川へとつながる神崎川の河口に開けた都市。物流の大動脈であった瀬戸内海と都とを結ぶ、淀川―神崎川水運との結節点として、平安時代後期以来繁栄した。平安時代には、大物や神崎(現在の尼崎市西川付近)など神崎川河口部に展開していたいくつかの港を総称して「河尻(かわじり)」とも呼ばれていた。その後、河口部の土砂堆積によって陸地が少しずつ沖合に前進していった結果、鎌倉後期ごろからは、大物から見て西南の地域を指す地名である尼崎が、この周辺を代表する地名として定着していった。

 
『玉葉』(ぎょくよう)

12世紀末期の摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)であった九条兼実(くじょうかねざね)の日記。現存するものは、長寛元(1164)年から建仁3(1203)年までにわたる。現在は欠落してしまっている時期のものも多い。しかし、平家の最盛期から鎌倉幕府の創設期に関する記録であり、兼実の上級公家という立場から、記された情報は公家・武家双方について比較的豊富かつ正確であり、史料的価値は高い。

 
『平家物語』(へいけものがたり)

鎌倉時代前半に成立した軍記物語。平家の興隆と滅亡を、仏教的な無常観を底流に置きながら記した書物。著者については、天台座主慈円(てんだいざすじえん)の周辺の人物が執筆したとの説などが注目されているが、確定的な説はない。『保元物語(ほうげんものがたり)』、『平治物語(へいじものがたり)』、『承久記(じょうきゅうき)』とともに、「四部合戦状(しぶかっせんじょう)」とも称される。これらの書物は、一定の事実を示す史料や当事者の証言などをも参照しながら執筆されたと考えられている。したがって、記述の中の事実を記す部分と物語的な創作の部分との区別は、それぞれについて吟味する必要がある。

 
『義経記』(ぎけいき)

室町時代に成立した軍記物語。『平家物語』とは対照的に、義経の出生と奥州下り、また源平合戦後の没落の過程を中心に描く。当時すでに成立していた義経伝説や、作者の創作が多分に織り込まれている。これ以後の謡曲(ようきょく)や浄瑠璃(じょうるり)における義経関係作品にも、大きな影響を与えた。

 
源義平(みなもとのよしひら)

1141―1160。源氏の棟梁である源義朝(みなもとのよしとも)の長男。長男であったが母の出自から弟の頼朝(よりとも)が嫡男として扱われていたとされる。父と同様に少年期に関東へ下向し、久寿2(1155)年には父と対立していた叔父の源義賢(みなもとのよしかた)を武蔵国大蔵館(むさしのくにおおくらのたち=現在の埼玉県比企郡嵐山町)に攻めて討ち取った。平治の乱で父義朝とともに戦ったが敗れ、京都周辺に潜伏中に捕らえられて処刑された。

 
源義朝(みなもとのよしとも)

1123―1160。源氏の棟梁(とうりょう)である源為義(みなもとのためよし)の嫡男。少年期に関東へ下向し、相模国(さがみのくに=現在の神奈川県)を拠点として南関東を中心に勢力を広げた。保元元(1156)年に発生した保元の乱では父や多くの弟たちと別れて後白河天皇(ごしらかわてんのう)の方に付いて勝利する。ついで平治元(1159)年の平治の乱で、藤原信頼(ふじわらののぶより)と組んで政権奪取を狙った。しかし、平清盛(たいらのきよもり)らの軍勢に敗れ、東国方面へ脱出したが、尾張国(おわりのくに=現在の愛知県西部)で殺害された。

 
平清盛(たいらのきよもり)

1118―1181。伊勢平氏の棟梁である平忠盛(たいらのただもり)の嫡男として生まれる。実は白河法皇(しらかわほうおう)の落胤(らくいん)という説も有力。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)でいずれも勝利した側につき、その後の中央政界で大きな力をふるうようになる。仁安2(1167)年に太政大臣(だじょうだいじん)となるが、3ヶ月で辞任し、長男の重盛(しげもり)を後継者とする。翌年に病のために出家し、その後は福原(ふくはら=現在の神戸市兵庫区)の別荘に居住して日宋貿易を進めるとともに、必要に応じて上京しては時の政局を左右し続けた。治承3(1179)年、後白河法皇(ごしらかわほうおう)を幽閉して朝廷の実権を握り、翌年には遷都を目指して福原へ安徳天皇(あんとくてんのう)を移す。しかし、全国で反平氏の挙兵が続く中、天皇を京都へ戻し、治承5(1181)年閏2月に没した。

 
『平治物語』(へいじものがたり)

鎌倉時代前半に成立した軍記物語。平治元(1159)年に発生した平治の乱の経緯を記す。作者については、都の貴族層の中で考えられているが確定的な説はない。『保元物語(ほうげんものがたり)』、『平家物語(へいけものがたり)』、『承久記(じょうきゅうき)』とともに、「四部合戦状(しぶかっせんじょう)」とも称される。

 
尊良親王(たかよししんのう)

?―1337。後醍醐天皇の第一皇子。元弘元(1331)年に父天皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、それにしたがって笠置山に立てこもり、ついで楠木正成の河内の居城へ移った。しかし、10月に捕らえられて土佐国幡多(とさのくにはた=現在の高知県中村市付近)へ流罪(るざい)となった。

建武の新政が始まると帰京したが、建武3(1336)年に反旗を翻した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都を攻め落とすと、弟の皇太子恒良親王(つねよししんのう)、新田義貞(にったよしさだ)とともに越前国(えちぜんのくに=現在の福井県東部)に下り、金ヶ崎城(かねがさきじょう=現在の福井県敦賀市)に入った。しかし、翌年3月、足利方の攻撃によって金ヶ崎城は落城、両親王も自害した。

なお、名前の読みについては、「たかなが」とも読まれてきている。この点については、本用語解説の「大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)」の項目を参照されたい。

 
菅原道真(すがわらのみちざね)

845―903。幼少より学問に優れたとされ、文章博士(もんじょうはかせ、大学寮の教官)や讃岐守(さぬきのかみ)などを歴任する。政治の刷新を進めた宇多(うだ)天皇(のちに譲位して上皇)の信任が厚く、右大臣(うだいじん)にまで昇進した。しかし、学者出身の右大臣は異例であり、従来からの権勢を保持しようとする藤原氏をはじめ、他の貴族たちの反感を買い、謀反の疑いをかけられて、延喜元(901)年に大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、大宰府で没した。

 
高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)

和歌山県高野町(わかやまけんこうやちょう)にある高野山真言宗(しんごんしゅう)の総本山。京都の東寺(とうじ)とともに、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が活動拠点にした寺院として真言密教(しんごんみっきょう)の聖地とされる。

弘仁2(816)年、空海は真言密教の道場として、高野山の地を朝廷から与えられ、伽藍(がらん)を建立した。紀行文「鳥」で述べた、高野明神と丹生都比売明神から寺地を譲られたとの伝説は、平安中期に成立したと見られる『金剛峰寺修行縁起(こんごうぶじしゅぎょうえんぎ)』から見られるものである。

 
安国寺(あんこくじ)

南北朝時代、足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)兄弟が、帰依していた臨済宗(りんざいしゅう)僧の夢窓疎石(むそうそせき)の勧めにより、全国の国ごとに建立した寺院。また、それぞれの安国寺ごとに塔も建立され、「利生塔(りしょうとう)」と呼ばれた。国ごとに国分寺を建立した聖武天皇の事跡に倣い、後醍醐天皇以下の南北朝の戦乱で死没した人々の慰霊のために建立された。新たに建立されたものもあるが、既存の寺院を改修してこれに充てたものもある。