犬飼を歩く

人身御供(ひとみごくう)を要求する神を、いあわせた来訪者が愛犬とともに退治するという犬飼の伝説。江戸時代中ごろの文献である『播磨鑑(はりまかがみ)』や、『播陽万宝知恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』に収録された『めざまし草』、『播陽うつつ物語』、『播州古所説略説(ばんしゅうこしょせつりゃくせつ)』などにも見える。このうち『めざまし草』は天正7(1579)年の奥書をもち、これが正しければ江戸時代になる前から語られていた伝説ということになる。その舞台となる姫路市香寺町犬飼(ひめじしこうでらちょういぬかい)を訪ねてみた。

神明神社
神明神社
竹宮大明神社殿
竹宮大明神社殿
天照大神社殿
天照大神社殿

伝説の舞台となった氏神の社は、神明神社(しんめいじんじゃ)である。境内は伊勢山と呼ばれる山の麓にあり、社殿は二つに分かれている。山の斜面の上にあるのが天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる神明神社の社殿、斜面の下にあるのが、「竹宮大明神(たけのみやだいみょうじん)」と額が掛けられている社殿である。

字宮ノ後付近
字宮ノ後付近

斜面の下の「竹宮大明神」の社殿は、地元の伝承では、かつては「宮ノ後(みやのしり)」という地名で呼ばれている平地にあったとされている。現在は地区の公民館やスーパーマーケットがあるあたりだ。しかし、湿地帯で場所が悪かったので、江戸時代前半に現在の神明神社境内に移したという。天照大神をまつる社殿の方は、神社に伝わる伝承では、永禄10(1567)年に、姫路の北の有明山(ありあけやま)から迎えたものとされている。

伝「キタノヤシキ」
伝「キタノヤシキ」

二つの社殿から石段を下りたところに、今は広場として整地されている平坦地がある。かつてはもう少しゆるやかな斜面だったというが、ここは「キタノヤシキ」と呼ばれ、中世後期にこの地を治めていた喜多野(きたの)氏の屋敷跡と伝えられている。この喜多野屋敷の南東の隅に、「犬塚」と書かれた石碑が建てられている。

犬塚
犬塚

また、神社の参道が鳥居をくぐるあたりに、かつて「ひひ塚」があったとされる場所がある。現在は参道を拡幅した際に削られ、断面が見えている状態になっているが、かつては少し盛り上がった塚状を呈していたという。

なお、このサイトでは神を「大猿」として紹介したが、正確には「ひひ」と言うべきである。ここで言う「ひひ」とは、今日アフリカなどにいるヒヒを指すのではなく、化けるほど年をとった猿を指している。

ひひ塚跡
ひひ塚跡
ひひ(『北斎漫画』)
ひひ(『北斎漫画』)

さらに、神社から旧道を南に下り、犬飼から地区外にでようとする地点に、大きな岩盤が露出している。ここにはかつて「馬すべり」と呼ばれたへこみのある岩があり、伊勢の神が馬に乗ってやってくるときに、馬がすべったひずめの跡であると伝えられていた。岩自体は、『神崎郡誌』によれば、道路拡幅のため1897(明治30)年ごろに削り取られたとされている。現在の岩盤は、この岩が削り取られた後の姿である。

馬すべり跡
馬すべり跡

伝説では、伊勢からやってきた男とその愛犬の活躍で、古い氏神を打ち負かしたとされている。こうした社殿のあり方や、祭神をめぐる伝承から考えると、この伝説には、古くからまつられていた竹宮大明神の後に、伊勢の天照大神がまつられるようになった、という歴史が反映されていると考えられる。

一般的に、伊勢信仰は、室町後期~戦国時代に庶民の間にも広く浸透していったとされている。伝説に出てくる男とは、全国をまわって伊勢への参詣を勧めるとともに、参詣の際の宿所を提供するなどした御師(おし)と呼ばれた宗教者であった。

犬飼の神明神社の場合、犬飼にまつられるようになった年代が伝承では永禄10(1567)年とされ、こうした伊勢信仰の広まりの一般的傾向とよく一致する。あるいは、このころ新たに伊勢の神を村の氏神とするにあたって、古い神との交代をスムーズに進めるために、こうした伝説が語られ始めたのではないか。その際、伊勢の御師が関与していた可能性が高いと考えられる。

用語解説

『今昔物語集』の猿神伝説

丹波篠山市犬飼 大歳神社
丹波篠山市犬飼 大歳神社

香寺町犬飼の伝説のように、猿などの人身御供を要求する神を、外来者が犬とともに退治するという話は、全国的に多数の類話が存在する。県域でも丹波篠山市犬飼(たんばささやましいぬかい)や姫路市広畑区才(ひめじしひろはたくさい)にほぼ同じ内容の伝説が見られ、丹波篠山市の場合は村の名前も同じく犬飼である。

丹波篠山市犬飼 大歳神社
丹波篠山市犬飼 大歳神社
姫路市広畑区才 犬塚
姫路市広畑区才 犬塚

こうした猿神退治型伝説は、時期的にも古くから定着していたようで、12世紀に編纂された『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』には、飛騨国(ひだのくに=現在の岐阜県北部)と美作国(みまさかのくに=現在の岡山県北部)の二つの話が収録されている。いずれも若い女性の人身御供を要求する猿や蛇の神に対して、外部から来た男が犬とともにこれを退治し、その後人身御供の習慣は途絶えたとするものである。

この話の源流は中国の説話集まで行き着くことも指摘されている。3世紀~6世紀に成立した『捜神記(そうじんき)』巻19には、現在の福建省(ふっけんしょう)の話として、大蛇の神に少女を生贄(いけにえ)にするならわしがあったところ、ある娘がみずから志願して犬とともに大蛇を退治したという話が記されている。

さて、猿神退治伝説をめぐっては、明治の昔から、そこで語られている人身御供が実際に太古の日本で行われていたかどうかをめぐって、さまざまな論争が繰り返されてきている。しかし、ここではその点に深入りすることは避けて、参考文献ライブラリーにあげた小松和彦氏の編著書と六車由美氏の著書をご覧いただくことをお勧めするに止めておこう。ここで注目しておきたいのは、全国的な広がりを持つこの伝説が、各地域に伝わり、定着していった過程についてである。

香寺町犬飼の事例は、この点を考える上で興味深い。村に新しく伊勢信仰が受け入れられていく過程で、こうした話が定着していったと推定できるためである。これは、伝説の伝播・定着について、宗教者が大きな役割を果たしていた事例と言える。この点については、もう一つの伝説を紹介しながら、また述べてみたい。

用語解説

粟賀法楽寺

もう一つの犬の伝説として、このサイトでは神河町中村(かみかわちょうなかむら)の法楽寺(ほうらくじ)の開基伝説を紹介している。この話は、古くから「播州犬寺(ばんしゅういぬでら)」の縁起として、地域ではよく知られていた話である。法楽寺境内には、本堂の前に白犬・黒犬像がまつられている。

法楽寺本堂
法楽寺本堂
開山堂
開山堂
山門
山門
白犬像
白犬像
黒犬像
黒犬像

中村から南に行った福本(ふくもと)の福山集落(ふくやましゅうらく)には、牧夫長者(まいぶちょうじゃ)の屋敷跡と伝承されてきたところがある。現在は稲荷の祠(ほこら)がまつられている。その背後の山頂付近には、犬の供養塔とされる宝筐印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔(ごりんとう)もある。宝筐印塔は南北朝期の形式を示す優品である。そこから谷を一つ隔てたところにある五輪塔は、各時代のものを寄せ集めたもののようだ。

伝牧夫長者屋敷跡
伝牧夫長者屋敷跡
宝筐印塔のある山
宝筐印塔のある山
福本福山宝筐印塔(写真提供:神河町教育委員会)
福本福山宝筐印塔(写真提供:神河町教育委員会)
福本福山五輪塔(写真提供:神河町教育委員会)
福本福山五輪塔(写真提供:神河町教育委員会)

また、神河町の北部、長谷(はせ)地区にも犬塚がある。現在の「犬塚」石碑は新しいものであるが、背後のお堂には宝筐印塔がまつられている。長谷に伝わる犬塚伝説は、法楽寺伝説の後日談ともいえるもので、牧夫長者の妻が、夫の地位を奪おうとした家来に味方したことを恥じて出家し、この地に清水寺(せいすいじ)という寺を建てて隠棲したとのものである。現在は長谷地区と呼んでいるが、江戸時代までは犬見村(いぬみむら)と呼ばれていて、長谷を流れる市川の支流を犬見川と呼んでいる。

神河町長谷 犬塚
神河町長谷 犬塚
清水寺
清水寺
犬見川
犬見川

なお、このサイトでは小学生にも読みやすくするために省略しているが、犬寺伝説には、牧夫長者の留守中に、妻が家来と恋仲になってしまっていた、との話が含まれている。長谷の伝説は、この話を踏まえたものである。

この法楽寺の犬寺伝説は、比較的古くからよく知られていたようである。鎌倉時代後期に成立した『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』巻28に、現在の伝説の原型が記されている。『元亨釈書』は全国的に広く読まれていた書物である。また、南北朝時代の播磨の地理・歴史書である『峰相記(みねあいき)』にも、やや変形された話が見られる。

さらに江戸時代の絵画作品として、『犬寺縁起絵巻(いぬでらえんぎえまき)』(大阪市立美術館蔵)もある。この絵巻は、法楽寺とは関係のないところで、江戸時代の都市の富裕層が楽しむ作品として制作されたと考えられている。犬寺伝説が、すでに江戸時代には有名な伝説として、播磨以外の地域でもよく知られていたことがうかがえるのである。

さて、この話も猿神退治伝説と同様に、源流は中国の怪異記録(「志怪〔しかい〕」と言う)にさかのぼることが指摘されている。先にあげた『捜神記』の続編にあたる、『捜神後記(そうじんこうき)』に、つぎのようなよく似た話が載せられているのである。現在の浙江省(せっこうしょう)から都に労役として駆り出された男が、休暇をもらって故郷に帰ってきた。しかし、男の留守中に、妻は召使と恋仲になってしまっていた。帰ってきた男を迎えた妻は、召使に弓矢で男を狙わせながら、男に食事を出して食べるように勧めた。男が死を覚悟したその時、飼っていた犬が召使を倒し、男は難を逃れた、という話である。犬寺の伝説と、話の骨組みは大変よく似ており、原話とみなして差し支えないと考えられている。

香寺町犬飼の伝説は、伊勢の神がこの地区に迎えられた戦国時代ごろ以降の定着と考えられるが、犬寺伝説は、『元亨釈書』に見えるので、遅くとも鎌倉後期には成立していたことになる。いずれも共通するのは、中国にまでさかのぼる原話があることと、宗教者がその伝播や定着に大きな役割を果たしていたと見られる点である。歴史の中では、宗教者がさまざまな古典から材料を得て、地域の実情に合わせてアレンジすることが、かなり古くから、そしてしばしば行われていたようだ。

このように、伝説のルーツをたどっていくと、中国にまで行き着く場合がある。紀行文「岩と樹木」で紹介している「おりゅう柳」伝説も、類似した事例である。

用語解説