化け猫
猫が化けると恐ろしい。このサイトで紹介した猫の怨霊(おんりょう)は、殺されたうらみを子供殺しで晴らす。紀行文「狸と狐」で紹介している狐や狸も人に害を及ぼすが、失敗して返り討ちにあうような間の抜けた話も多いし、場合によっては人間に恩返しをしてくれることもある。猫にもそうした話はあるが、やはり凶暴な話の方が目立つ。
よく知られているのは、吉田兼好(よしだけんこう)の『徒然草(つれづれぐさ)』89段に出てくる「猫また」であろうか。夜更けに家路を急ぐ僧侶の足もとに、何者かがやってきて首もとに飛びついた。僧侶は腰を抜かして道ばたの小川に転がり込み、「助けてくれ。猫まただ、猫まただ。」と叫んだ。近所から松明(たいまつ)を手に人々が駆けつけてみると、実は僧侶が飼っていた犬が主人に飛びついただけだった、という話である。
この話は笑い話になっているが、猫は年をとりすぎると「猫また」になって人を喰う、と考えられていた。「猫また」は尾の先が二股に分かれている、という。
このサイトの伝説の典拠とした、18世紀の怪談集『西播怪談実記(せいばんかいだんじっき)』には、ほかにも3つの猫の伝説が載せられている。1つ目は、現在のたつの市新宮町香山(しんぐうちょうこうやま)の伝説である。久太夫(きゅうだゆう)という村人が、飼っている鶏が毎晩夜鳴きをするのでよくないきざしと考え、村の前を流れる揖保川(いぼがわ)に捨てた。するとその鶏が、たまたま香山に商売でやってきて川原で昼寝をしていた塩商人の夢枕に立ち、「どこかへ行ってしまっていた久太夫の飼い猫が戻ってきて、久太夫の命をねらっている。自分はそれに気づいたので毎晩早鳴きをして猫を追い払っているのだ。」と告げた。商人はびっくりして久太夫にこのことを告げ、久太夫は猫を見つけて殺した、とされている。
2つ目の話。現在の姫路市林田町六九谷(むくだに)では、村の庄屋の家に住んでいた尼僧に、長い間飼っていた年寄りの猫が言葉をかけた、という。尼僧は夫と相談して、「この猫はいずれ災厄をもたらすだろうから殺した方がいい。しかし、自分の手で殺すと死後の怨霊が恐ろしい。」と考え、ワナにかけてこの猫を殺したという。
3つ目は、たつの市新宮町の城山城跡(きのやまじょうし)の話。龍野(たつの)で仕事をしていた大工たちが、休日に近くの城山城跡の見物に出かけた。すると、唐猫谷(からねこだに)というところで岩の上に一匹の大きな猫を目撃した。仲間たちと、「人里離れたところに猫がいるのはおかしい、山猫ではないか」と恐ろしがった。龍野に帰ってから仕事場にしていた寺の住職に話をしたところ、「むかしから猫がいるという話は聞いていた。やはり、猫がいるので唐猫谷と言うのだろうか。」と語ったという。
この3つの話では、猫は何もしない。しかし、人語を語るという異常なきざしに、人々は敏感に反応している。さらには姿を目撃したりしただけで恐れおののいてもいる。妖怪化した猫は恐ろしいという共通認識があったためである。香山の猫の場合は、鶏が告げただけで、猫自身が異常な行動を見せたわけでもないのに殺されてしまった。少し猫に同情したくなるくらい恐れられている。
用語解説
火の玉
火の玉の類をひっくるめて「光りもの」というが、これにはいくつか種類がある。最も有名なのは、霊魂を象徴するヒトダマ(人魂)であろう。そのほかに、狐や狸がおこす狐火、狸火、怪鳥や鬼神などのさまざまな怪物がおこす火や吐く火もある。そして、なんだか正体のわからない火の玉もある。
このサイトで紹介した火の玉も、正体は明示されていない。秋口の雨の降る闇夜、道ばたの藪の中で燃えていた火とされている。これも『西播怪談実記』から採った話である。この書物にはあと6つ火の玉の話がある。
紹介した話とよく似ているのが、佐用村(さようむら=現在の佐用町佐用)の町はずれの藪に出た火の玉の話。ここではよく火の玉が出ると伝えられていて、著者の春名忠成(はるなただなり)が夜更けまで囲碁遊びをしての帰り道、雨が降っていたのできっと火の玉が出るだろうと藪を見ていると、はたして火の玉が燃え上がりぱっと消えた。翌日その話を若い者にしたところ、また雨の夜に2、3人が見に行き、やはり火の玉を見たという。火の玉は間近で見ると青く、離れて見ると赤く見えた。火焔が出る場所には古い塚があるとされるが確認できていない、という。塚と結びつけられているところからみると、人魂と考えられているようだ。
佐用村の住人の墓所にあった春草庵(しゅんそうあん)という寺院で目撃された火の玉も、場所柄から見て人魂と見てよいだろう。ある夏の夜のこと、この寺の僧侶が窓から外をながめると少し離れたところに火の玉が見え、まっすぐ庵の方へやってくる。僧侶がさわがず経をとなえていると、火は庭先を少しさまよった後に消えた、という。
人魂の話としてはつぎの話もある。梅雨のころで雨が降りそうなどんよりした日暮れ時、蒲田村(かまたむら=現在の姫路市広畑区蒲田、西蒲田付近)へ友人を訪ねて出かけた人が野道を歩いていると、道の真ん中に2つの火が現れ、よじれたりもつれたりしてからまたぱっと消えた。友人宅に着いてその話をすると、それは「草刈火」と呼ぶ火で、むかし草刈りをしている時に喧嘩した子供たちが鎌で切りあって、2人とも死んでしまったことがあり、その亡霊が今でもその場所で喧嘩を続けているのだ、と教えてくれたという。
龍野城下町の商家では、臨終間ぎわの母親を看病していた娘が、とつぜん何かを止める様子で外へ走り出した。と同時に母は死んでしまい、帰ってきた娘はすぐに気絶してしまった。やがて意識を取り戻すと「熱い、熱い。」と言うので、周りのものが様子を見たところ、着物の袖の下に火がついてくすぶっていた。落ち着いてから語った娘の話では「鬼が火の燃えさかる車を引いてきて、母を放り込んで引いていった。母を取り返したい一心で車をつかんで止めようとしたが引き離されてしまった、車はそのまま空へ昇っていき、あとは覚えていない。」ということである。これは死者を運ぶ鬼の火の話である。
このほか、現在の宍粟市山崎町上牧谷、下牧谷(しそうしやまさきちょうかみまきだに、しもまきだに)では狐火(きつねび)が目撃されている。狐が口に三味線(しゃみせん)のばちに似た牛の骨のようなものをくわえていて、それを振ると火がつくというものだ。目撃した村人は、近寄ってきた狐をおどかして狐火を手に入れた。しかしつぎの晩から、夜中に寝間の戸を叩いて「返せ、返せ。」という声が続いたので、やむをえず返したという。
佐用郡山田村(やまだむら=現在の佐用町山田)では、ある夏の終わりの午後、手まりぐらいの大きさの火がものすごい音をたてて飛び去っていき、その通った筋にあたる木はすべて枝が折れていたという。話の内容から考えると、これは隕石(いんせき)だったと考えてよいだろう。 ここには墓場の亡霊と見られる火、死んだ子供の亡霊の火、鬼の車の火、狐火、はては隕石など、さまざまな怪火があげられている。江戸時代の人々は、実にさまざまな火の玉を見ていたようだ。こうした火は、日常生活の中で本当の暗闇を失った現代の私たちには、もはや見ることはできないのだろうか。
『西播怪談実記』
ここで紹介してきた『西播怪談実記』は、佐用郡佐用村に住んでいた春名忠成が執筆し、宝暦4(1754)年に本編4冊が、同11(1761)年に続編にあたる『世説麒麟談(せせつきりんだん)』4冊が刊行された。ここでは両者をあわせて『西播怪談実記』と呼んでいる。
著者春名忠成は、佐用村で商業を営みながら、怪談・奇談集などを著した文化人であった。忠成の本家は佐用郡新宿村(しんじゅくむら=現在の佐用町末広)の大庄屋で、この一族のものが大坂で吉文字屋(きちもんじや)という書店兼出版社を営んでおり、忠成の著書もこの吉文字屋から出版されていた。
また、佐用には忠成と同時期に岡田光かど(※)(おかだみつかど)という歌人がおり、忠成も光かどを中心とする文化人サークルの中で活動していた。江戸時代には、江戸や大坂といった大都市だけではなく、各地の地域社会でも多数の文化人たちが活躍していたのである。
(※)「岡田光かど」は、正しくは、と表記しますが、インターネット上では正しく表示されない可能性があるので、ひらがなで表記しています。
『西播怪談実記』は、著者が実際に見聞した話を実話として記録する、という姿勢で執筆された。その文章は大げさにならず淡々と記されている。しかし、その分だけリアリティーがある。
本書には、合計87編の怪談が収められている。話の舞台となった地域は、佐用郡を中心に近隣の赤穂(あこう)、宍粟、揖西(いっさい)、揖東(いっとう)各郡から姫路周辺までに広がっている。内容で分類すると、狐や蛇など動物の怪異が26話、河童や幽霊・大入道(おおにゅうどう)などの物の怪(もののけ)話が25話、神仏の霊験が9話、ここで紹介した怪火、怪風といった自然の怪現象が7話、そのほかの奇談が20話となっている。
忠成が収録した話は、現代に編纂された民話・伝説集には収録されていないものがほとんどである。伝説や昔話は、歴史の中ではつぎつぎと新しい話が生み出され続けていたはずだ。これは今日でも「都市伝説」などを考えれば同じことが言えるだろう。しかし、今日われわれが知りうるものは、そのごく一部分に過ぎない。今日ではすでに伝承としては残されていない伝説を数多く知ることができるという点でも、本書は貴重な文献となっている。