戦国時代、姫路(ひめじ)を小寺(こでら)氏が治めていたころのことです。小寺氏の重臣で青山(あおやま)に館(やかた)をかまえる青山鉄山(あおやまてつざん)という人がいました。
鉄山は常々、小寺氏に代わって自分が姫路城主になりたいと思っていました。小寺氏もこうした鉄山の野望に気づいていて、様子を探るためにお菊という女性を、鉄山の館に召使いとして住みこませていました。
永正元(1504)年、小寺氏の当主が亡くなり、まだ若い則職(のりもと)があとを継ぎました。これをチャンスと見た鉄山は、翌年の春、姫路の北にある随願寺(ずいがんじ)で開かれる花見のときに、酒に毒をしこんで、小寺一族を暗殺してしまおうとたくらみました。しかし、鉄山の子息小五郎(こごろう)が父を止めようとします。
「父上、そのような恐ろしいくわだてはおやめください。」
「おのれ小せがれ。じゃまをするな。」
怒った鉄山は小五郎を牢屋(ろうや)に閉じこめました。これを知ったお菊は小五郎をかばい、小五郎から鉄山の悪いたくらみを知らされると、急いで主君の小寺則職に伝えました。そのおかげで、鉄山たちのくわだては、すんでのところで防がれました。
しかし、それからすぐに播磨(はりま)では大名(だいみょう)同士の大きな争いがおこりました。その中で勝った方についた鉄山はついに姫路城を占領し、敗れた小寺則職は瀬戸内海に浮かぶ家島(いえしま)へと落ちのびていきました。
季節は梅雨のころ、姫路城を手に入れて大喜びの鉄山は、近くの土豪(どごう)たちを集めて宴会(えんかい)を開きました。そして、そばを振る舞うために、「こもがえの具足皿(ぐそくざら)」と呼ぶ小寺家の家宝であった十枚ぞろいの皿を出すことにしました。
鉄山の家来である町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)は、常々お菊に好意を持っていたのですが、お菊は相手にしませんでした。これをうらみに思った弾四郎は、お菊が用意することになっていた十枚ぞろいの皿のうち一枚をかくし、お菊がなくしたと疑われるようにたくらみました。
皿が一枚足りないことを知った鉄山は、お菊をきびしく責めようとします。そこを弾四郎がなだめすかし、お菊は弾四郎の屋敷(やしき)に預けられることになりました。ねらいどおりに事がはこんで喜ぶ弾四郎は、この時とばかりお菊に思いを伝えますが、やはりお菊は相手にしません。おこった弾四郎は、お菊を屋敷の庭の松につるしあげるなど散々に暴力をふるった末に、井戸へ投げこんで殺してしまいました。
するとその夜から、井戸のあたりで「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚…。」と皿を数えるお菊の悲しげな声が聞こえ、屋敷中にガラガラと皿の音が鳴りひびくようになりました。人々はこれをおそれ、この屋敷を「皿屋敷」と呼ぶようになりました。
やがて、小寺則職は味方の大名の助けをえて姫路城を取り返しました。青山鉄山は討ち死にし、小五郎も父の行いをはじて自殺しましたが、町坪弾四郎はかくしていた皿を持って降伏を願い出ました。しかし、則職は許さず、室津(むろつ)にいたお菊の妹二人の仇討ち(あだうち)の願いを聞き入れ、弾四郎を討ちとらせました。
小寺則職は、姫路の十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)境内に社(やしろ)を建てて、お菊をまつりました。お菊が弾四郎につるしあげられた松は、毎年梅雨のころになると枯れ、梅雨が過ぎるともとの緑の葉にもどるので、「梅雨の松」と呼ばれたといいます。さらにお菊の亡霊(ぼうれい)は虫となって、命日(めいにち)が来るたびにあらわれるとされています。
(『姫路城史』をもとに作成)