はるかに遠い昔。八鹿(ようか)の妙見山(みょうけんさん)に、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)がお下りになったころのことです。
網場村(なんばむら)に森木三右衛門(もりきさんえもん)という人が住んでいました。三右衛門は妻と二人暮らしでしたが、信心のあつい働き者でした。
ある夜のことです。三右衛門が仕事を終えてねようとしていたところ、とんとんと戸をたたく音が聞こえました。
「こんな夜ふけにだれだろうか」
三右衛門がふしぎに思いながら戸を開けてみると、暗やみの中に一人の少年が立っています。
「夜おそく申しわけありませんが、一晩、とめてもらえないでしょうか」
少年のつかれきったようすを見て、気の毒に思った三右衛門は、家に招き入れました。
「何のおもてなしもできんが、休んでいきなされ」
家の明かりであらためて少年を見ると、どうもただの人とは思えません。顔だちはまだ少年ですが、何とも神々しい気配がします。
少年を部屋へ案内した後も、三右衛門はどうも落ち着きませんでした。何か大切なことを忘れているような気がしてならないのです。そのうちどうしたわけか、蔵の中にしまってある木の臼(うす)のことが気にかかりはじめました。
そこで、三右衛門は妻と相談して、臼を少年の部屋まで運びこみました。すると少年は、当たり前のようにその臼に座ってこう言ったのです。
「私はこれから休ませてもらいます。けれど、私が休んでいる間、けっして部屋の中をのぞかないでください」
そう言われると、三右衛門は、ますます気になってしかたがありません。布団に入っても、なかなかねつかれないまま考えこんでいましたが、夜中をすぎるころ、とうとうがまんできなくなってしまいました。ねどこをそっとぬけ出すと、少年の部屋に近づいて、戸のすきまから中をのぞいてしまったのです。するとそこには、臼にぐるぐると巻きついてねむっている、一ぴきの大きな白い蛇(へび)の姿がありました。
あまりのことに、三右衛門は気を失うほどおどろきました。ふるえながら自分の布団にもどり、そのまま朝までねむることもできませんでした。
ようやく東の空が白みかけたころ、少年は起きてきて、三右衛門に声をかけました。
「とめていただきありがとうございました。私はこれから帰ることにいたします」
支度をととのえて、少年は出て行きました。しかしきみょうなことに、街道ではなく、道のない山の方へと向かってゆきます。神社の森がある山へ向かってまっすぐに進み、やがて、尾根(おね)をこえるところで、その姿が夜明け前の空にくっきりとうかんで見えたのでした。三右衛門はようやく気づきました。
「そうか、妙見さまのお使いだったのだ」
そこで三右衛門は、少年の姿が最後に見えた尾根の上に鳥居を建てて、妙見様をおがむ場所にしました。それからは、三右衛門の家は栄えて、お金持ちになったといいます。これを聞いた村人たちは、鳥居がある場所を、富貴が撓(ふきがたわ)と呼ぶようになりました。
しかし、言いつけに背いて部屋をのぞいたためか、その後、この家のあととりに生まれた人は、みんな生まれつき右の目が見えなかったということです。
三右衛門から何代か後、信心のない人がこの家の主になりました。妙見様を信心せず、鳥居が古くなってたおれても、知らん顔をしていたところ、だんだんと貧しくなって、とうとう家は絶えてしまったのです。
けれどもあの臼だけは、分家の三吉(さんきち)があずかっていました。
文化4(1807)年の秋、網場村に大火事がおきました。村中の家が焼けてしまいましたが、臼をしまってあった三吉の蔵だけは焼けませんでした。
「きっと、妙見様が臼を守っておられるのだろう」
そう考えた三吉は、この臼を日光院(にっこういん)へ納めて、供養してもらうようにとたのみました。
こうして、いまでもこのふしぎな臼は、日光院にお祭りされています。