遠い昔のことです。
但馬(たじま)の山東(さんとう)や和田山(わだやま)のあたりは、向こう岸が見えないほど広い湖でした。粟鹿山(あわがやま)や、まわりの高い山々も、その湖の上に頭を出した島でした。人々は、粟鹿山のことを、大山(おおやま)と呼んでいたそうです。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトという神様が、天から粟鹿山の頂上に降りてきました。そして山の上からあたりを見回して、「この広い湖の水を海へ流し出して、広い土地を造ったならば、人々が住みやすくなるだろう」と考えました。

ここで、この長い名前の神様のことを、少しだけお話ししておきましょう。

 アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、天の上にある、高天原(たかまがはら)という神様の国から下ってきたニニギノミコトが、地上でコノハナサクヤヒメと結婚(けっこん)して生まれた三人の子(ホデリノミコト・ホスセリノミコト・ホオリノミコト)の一人、ホオリノミコトの別名だということです。
ホオリノミコトにはもう一つ名前があって、山幸彦(やまさちひこ)とも呼ばれていました。お兄さんのホデリノミコトは、海幸彦(うみさちひこ)と呼ばれています。『古事記』という本には、山幸彦が兄の海幸彦との争いに勝って、海の神のむすめ、豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し、ウガヤフキアヘズノミコトという子供が生まれたと記されています。そしてこのウガヤフキアヘズノミコトの子供が、日本で最初の天皇である、神武天皇(じんむてんのう)になったという神話へと続いてゆくのです。

さて、粟鹿山の頂上から下りると、アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、水をせき止めていた山をけりくずしました。水はごうごうと音を立てて、みんな日本海へと流れ出してしまいました。そのあとには広い土地ができましたが、まだ水気が多くてぬかるんでいたところもありましたので、そこには大きな石のお地蔵様をうめこんで、土地を固めたそうです。
それからというもの、この土地にはたくさんの人が住み着いて、あちこちに豊かな村ができました。人々は、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが国を見わたした山を、見国岳(みくにだけ)と呼んで毎日拝んでおりました。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが見国岳で休んでおりますと、一頭の美しい牝鹿(めじか)が、三本の粟(あわ)の穂(ほ)を角の上にのせてやって来て、うやうやしくささげました。これが粟鹿山という名の始まりになったのです。その後人々は、山のふもとに粟鹿神社(あわがじんじゃ)を建てて、アマツヒダカヒコホホデミノミコトをお祭りするようになったということです。