菟原のあたり

今の神戸では、もう菟原(うばら)という地名を知る人も、ほとんどいないだろうけれど、菟原郡が地名から消えたのは1896(明治29)年のことだから、ほんの110年ほど前のことである。

現在の芦屋市(あしやし)から、神戸市中央区の生田川(いくたがわ)あたりまでが菟原郡にあたる。六甲山(ろっこうさん)が海に迫り、平地こそ狭いが、畿内と九州を結ぶ山陽道がそのすそ野を通る重要な地域でもあった。

菟原付近のようす(摂津名所図会から)
菟原付近のようす
(摂津名所図会から)
菟原付近のようす(摂津名所図会から)
菟原付近のようす
(摂津名所図会から)
菟原付近のようす(摂津名所図会から)
菟原付近のようす
(摂津名所図会から)

菟原の乙女の物語は、奈良時代にはすでに伝説になっていたようだが、現在語られる伝説は、平安時代に書かれた『大和物語(やまとものがたり)』が元になっているそうだ。その物語があまりにも悲しく、胸に迫ることが、千年以上もの間語り伝えられた理由なのかもしれない。現代の菟原あたりは、もう「原」と呼ぶことも思いつかないような都市のまん中で、明るい、乾いた空気に包まれている。

伝説の舞台になった処女塚(おとめづか)、東求女塚(ひがしもとめづか)、西求女塚(にしもとめづか)は、2kmほどおいて等間隔に並んで、どれも古代の海岸線からたいへん近い場所に築かれている。この並びは陸上よりも、海上から見たほうがはるかによくわかったはずである。処女塚伝説を生み出したのは、海から三つの塚を眺めていた人だったのではないだろうか。

用語解説

処女塚

処女塚古墳
処女塚古墳

処女塚は、阪神電車の石屋川駅(いしやがわえき)から、およそ300m西の海岸寄りにある。駅から石屋川に沿って下り、出会った広い道を西へたどれば迷うこともないだろう。大正年間に国の史跡となり、20年ほど前に公園として整備された。

周囲を住宅やビルに囲まれ、古墳の上だけが松の緑に覆われたオアシスになっている。墳丘はきちんと整備されていて散策することができ、東側には田辺福麻呂(さきまろ)の歌碑も建てられている。

処女塚は、古墳時代前期の早い時期に築造された、前方後方墳であるから、それから奈良時代までの400年ほどの間に伝説ができたことになる。墓の主のことが忘れ去られ、いつの間にか乙女の伝説に変わってゆくのに、いったいどれほどの時間がかかったのだろう。

用語解説

東求女塚

東求女塚古墳
東求女塚古墳

阪神電車をさらに東へ乗り継ぎ、住吉駅から東へ歩くと、5分ほどで東求女塚である。元は前方後円墳だったが、明治時代に土取りで破壊されてしまい、後円部だけが公園として残るものの、古墳の面影はほとんどない。埋葬部も消え去り、少数の出土品が伝わるだけである。グラウンドのように整備された広場のまん中に、石垣で円く囲まれた高まりがあり、そこにぽつんと立つ石碑だけが、この場所の由来を知るよすがとなっている。

前方部には幼稚園がある。幼い子らの歓声を聞きながら、墓の主は苦笑いしているかもしれない。

用語解説

西求女塚

西求女塚古墳
西求女塚古墳

東求女塚に比べて、西求女塚は恵まれていたといえるだろう。阪神電車の西灘駅(にしなだえき)から、およそ150m南東にあるこの古墳は、1986年から13回にわたって発掘調査がおこなわれている。

1993年には多数の副葬品が出土して、古墳時代のごく初期に造られたものだということがわかった。三つの古墳の中では、最も古い古墳なのである。

緑の木に取り囲まれた墳丘は、きれいに整備されている。前方後円墳に見えるように整備されているが、前方後方墳だということがわかったのは最近のことである。

用語解説

万葉集から

『万葉集』では、3人の歌人が処女塚伝説を詠んでいる。中でも高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)は、伝説の筋書きがおよそわかる長歌を残している。

伝説を語る(播州名所巡覧図絵)
伝説を語る(播州名所巡覧図絵)
乙女塚と求女塚(兵庫名所図巻)
乙女塚と求女塚(兵庫名所図巻)

葦屋の 菟原処女の 八年児の 片生ひの時ゆ 振分髪に 髪たくまでに 並びゐる 家にも見えず 虚ゆふの 隠りてをれば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の誂ふ時 千沼壮士 菟原壮士の 伏せ屋焼く 進し競ひ 相結婚ひ しける時は 焼太刀の柄おし撚り 白檀弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく 倭文たまき 賤しき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも あふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 千沼壮士 その夜夢に見 取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地に伏し 牙喫みたけびて もころ男に 負けてはあらじと かき佩の 小劒取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 永き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 こなたかなたに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭泣きつるかも

(あしのやの うないおとめの やとせごの かたおいのときゆ をはなりに かみたくまでに ならびいる いえにもみえず うつゆうの こもりておれば みてしかと いぶせむときの かきほなす ひとのとうとき ちぬおとこ うはらおとこの ふせやたく すすしきおい あいよばい しけるときは やきだちの たがみおしねり しらまゆみ ゆきとりおいて みずにいり ひにもいらんと たちむかい きおいしときに わぎもこが ははにかたらく しつたまき いやしきわがゆえ ますらおの あらそうみれば いけりとも あうべくあれや ししくしろ よみにまたんと こもりぬの したはえおきて うちなげき いもがいぬれば ちぬおとこ そのよゆめにみ とりつづき おいゆきければ おくれたる うばらおとこい あめあおぎ さけびおらび つちにふし きかみたけびて もころおに まけてはあらじと かきはきの おだちとりはき ところづら とめゆきければ やからどち いゆきつどい ながきよに しるしにせむと とおきよに かたりつがむと おとめづか なかにつくりおき おとこづか このもかのもに つくりおける ゆえよしききて しらねども にいものごとも ねなきつるかも)

何とも悲しい響きの歌である。かがり火の下、この歌を朗々と歌う声を聞いたなら、誰しも涙を流したことだろう。

ほかにも、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)、大伴家持(おおとものやかもち)などがそれぞれ長歌と反歌を詠んでいる。はかなく悲しい伝説は、万葉人の心にも響いたのである。

用語解説