【菟原郡】うばらぐん

 摂津国にあった郡のひとつ。現在の芦屋市・神戸市東灘区・神戸市灘区・神戸市中央区東部にあたる。兵庫県成立時にも郡名は存在したが、1896年に武庫郡に編入されて消滅した。

 
【大和物語】やまとものがたり

 平安時代前期に成立した歌物語。作者は不明。2巻からなり、前半は和歌を中心とした物語、後半は伝説・説話的性質をもつ。

 
【処女塚古墳】おとめづかこふん

 神戸市東灘区御影塚町にある、古墳時代前期の前方後方墳。石屋川によって形成された、海岸線に近い砂堆(さたい)上にある。全長70m、後方部幅39m、前方部幅32mと推定されている。

 墳丘の整備に伴う発掘調査によって、葺石(ふきいし)の存在などが確認されているが、墳丘は全般に破壊が進んでいるという。後方部中央の埋葬施設は調査されていないが、通常の竪穴式(たてあなしき)石室ではないと考えられている。また、くびれ部に近い前方部で、箱式石棺1基がみつかっているが、これは古墳築造年代より新しい埋葬である。

 出土した土器には、鼓形器台(つつみがたきだい)などの山陰系土器が含まれており、西求女塚古墳と共通する要素として注目される。古墳の築造年代は、4世紀中ごろと推定されている。

 
【東求女塚古墳】ひがしもとめづかこふん

 神戸市東灘区住吉宮町に所在する、古墳時代前期の前方後円墳。住吉川右岸の海岸線に近い平地にある。墳丘の破壊が著しいが、全長約80m、後円部直径47m、前方部幅42mと推定されている。

 明治初年までは墳丘が残されていたが、壁土採取のために掘削され、その際に三角縁神獣鏡、内行花文鏡、画文帯神獣鏡などの銅鏡6面、車輪石、鉄刀、勾玉(まがたま)、人骨などが出土した。また1900年ごろにも、2面の鏡片が出土している。こうした破壊の際に、後円部より石材が出土していることから、埋葬施設は竪穴(たてあな)式石室であったと推定されている。

 さらにその後、阪神電車による前方部の土取りがおこなわれ、後円部もしだいに削平を受けて、ほとんど痕跡をとどめないまでになった。1982年に前方部の一部が発掘調査され、かつて周濠(しゅうごう)が存在したこと、墳丘に葺石があったことなどが明らかになった。

 東求女塚古墳が築造されたのは、出土遺物や前方部の形態などから、4世紀後半でもやや新しい時期とされている。

 
【西求女塚古墳】にしもとめづかこふん

 神戸市灘区都通にある、古墳時代前期の前方後方墳。海岸線に近い平地にある。全長98m、後方部幅50m、前方部端幅48mとされている(発掘調査による復元案による)。

 1986年から2001年にかけて、13次にわたって実施された発掘調査によって、その内容が明らかにされた。

 西求女塚古墳では、後方部中央に竪穴式(たてあなしき)石室が設けられており、三角縁神獣鏡7面、浮彫式獣帯鏡2面、画文帯神獣鏡2面、画像鏡1点と、剣、槍(やり)、鏃(やじり)、斧(おの)、ヤスなどの鉄製品などが出土した。また出土した土器の大部分は、山陰系の大型壺(つぼ)、鼓形器台(つつみがたきだい)などによって占められており、西求女塚古墳が山陰地方と深い関連を持つことが明らかになった。

 これらの成果から、西求女塚古墳の築造年代は、定型化された大型古墳の出現によって画される古墳時代の初頭、3世紀の中ごろに相当し、古墳としては最古の一群に属すると考えられている。古墳の成立過程や、成立期の近畿・中国地方の政治的関係などを知る上で、極めて重要な位置にある古墳である。

 
【万葉集の処女塚伝説】
まんようしゅうのおとめづかでんせつ
『万葉集』で、処女塚伝説に関連した歌を詠んでいる歌人、および歌は下記のとおり。

高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)の歌
葦屋の 菟原処女の 八年児の 片生ひの時ゆ 振分髪に 髪たくまでに 並びゐる 家にも見えず 虚ゆふの 隠りてをれば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の誂ふ時 千沼壮士 菟原壮士の 伏せ屋焼く 進し競ひ 相結婚ひ しける時は 焼太刀の柄おし撚り 白檀弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく 倭文たまき 賤しき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも あふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 千沼壮士 その夜夢に見 取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地に伏し 牙喫みたけびて もころ男に 負けてはあらじと かき佩の 小劒取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 永き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 こなたかなたに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭泣きつるかも(巻9-1809)

反歌
葦屋の 菟原処女の 奥津城を 往き来と見れば 哭のみし泣かゆ(巻9-1810)
墓の上の 木の枝なびけり 聞きしごと 血沼壮士にし 依りにけらしも(巻9-1811)

田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌
葦屋の処女の墓を過ぎしる時作れる歌一首併びに短歌
古の ますら壮士の 相競ひ 妻問しけむ 葦屋の 菟原処女の 奥津城を わが立ち見れば 永き世の 語にしつつ 後人の 偲びにせむと 玉ほこの 道の辺近く 磐構へ 作れる塚を 天雲の 退部の限 この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ 或人は 哭にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎ来し 処女らが 奥津城どころ 吾さへに 見れば悲しも 古思へば (巻9-1801)

反歌
古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥津城ぞこれ (巻9-1802)
語りつぐ からにもここだ 恋しきを 直目に見けむ 古壮士 (巻9-1803)

大伴家持(おおとものやかもち)の歌
処女墓の歌に追ひて同ふる一首併に短歌
古に ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 血沼壮士 菟原壮士の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて 相争ひに 妻問しける をとめらし 聞けば悲しき 春花の にほえさかえて 秋の葉の にほひに照れる 惜しき 身の壮すら 丈夫の 語いたはしみ 父母に 啓し別れて 家離り 海辺に出で立ち 朝暮に 満ち来る潮の八重波に なびく玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ 奥墓を ここと定めて 後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に しのひにせよと 黄楊小櫛 しか刺しけらし 生ひてなびけり (巻19-4211)
処女らが 後のしるしと 黄楊小櫛 更り生ひて なびきけらしも (巻19-4212)