揖保川と龍野
龍野(たつの)は播磨(はりま)の小京都とも呼ばれる。県道姫路上郡線(ひめじかみごおりせん)をたどり揖保川(いぼがわ)の流れを西に渡って、まず目に入るのは、古い龍野の町並みの北に並ぶ鶏籠山(けいろうざん)と的場山(まとばさん)であろう。「兵庫の貴重な景観」Bランクに選ばれている鶏籠山は、美しい山容とともに、その麓にある龍野城で知られている。そうめんや醤油、童謡「赤とんぼ」などで有名なこの町が、野見宿禰(のみのすくね)と深いつながりがあることを知ったのは、『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』からであった。
『播磨国風土記』の成立は、文章の表記方法から713年~715年ころとされている。野見宿禰の物語は、奈良時代に入って間もないこのころすでに伝説と化していたようだから、当時の人にとっても「かなり昔の話」という感覚だったのだろう。
用語解説
野見宿禰墓
的場山のふもとに整備された公園から、山腹を巻くように続くなだらかな山道を登ると、10分ほどで野見宿禰墓の下に着く。そこからは、石積みの長い階段を登らねばならない。息を切らして上り詰めた場所が、野見宿禰墓と言われる古墳である。古墳の前には、鳥居と石作りの扉があり、周囲には山道が巡っていて一回りすることができる。この山道が古墳の形を忠実になぞっているならば、野見宿禰墓は円墳ということになりそうだ。古墳の背後からのびる道は、的場山への登山道である。
鳥居と石の扉で、正面からは古墳の様子を見ることはできないが、背後からは少しその中をうかがうことができる。正面が厳重に閉ざされていて、古墳の中に入るのははばかられるので、端の方に少しだけ登って見てみたが、シダが茂った墳丘には特に変わった所はなく、埋葬施設を想像する手がかりもなかった。
実際、この古墳は調査されていないから、築造年代や埋葬施設は不明である。ただひとつ確かなのは、この古墳が龍野の平野をにらんで築かれていることであろう。墳丘からは、東~南東に大きく視界が開けていて、揖保川の流れを眼下に、その東に広がる市街を一望できる。そんなことから、「揖保川の石を手渡しで運んだ」という伝説もできたのだろうか。
古墳と相撲をめぐって播磨には、もうひとつ興味深いことがある。6~7世紀の古墳からみつかることがある「装飾付須恵器(そうしょくつきすえき)」と呼ばれる土器である。これは須恵器の壺などに人や動物などの小さな像をつけて、当時のいろいろな情景を作ったものだが、その中に相撲を表した小像がつけられたものがあるのだ。少なくとも古墳時代後期の播磨では、相撲がおこなわれており、それは古墳を築いた墓の主たちにとって大切な行事だったことは確からしい。野見宿禰、相撲、装飾付須恵器。これらはどんな出自をもち、どんなふうに結びついているのだろうか。
相撲の神様である野見宿禰の、墓に設けられた玉垣は力士が寄進したもので、名力士や、今も襲名されている行事などの名前が刻まれている。
用語解説
土師神社
揖西町(いっさいちょう)の土師神社(はじじんじゃ)のあるあたりが、風土記に記された「桑原里(くわばらのさと)」である。現在は新興住宅地となって、日下部里の面影を探すことも難しいが、かつては水田が広がる中にぽつぽつと丘陵が散在する景観が広がっていたことだろう。
小高い丘に建つ土師神社は、野見宿禰を祭神として祭っている。土師氏は野見宿禰を祖先と仰ぐ氏族で、古墳の造営や埴輪・土器などの生産をおこなった集団である。土師神社がある場所の大字は土師、小字は梶ヶ谷(かじがたに)といわれる。梶ヶ谷は「鍛冶(かじ)」に通じるのであろうか。この場所の小字名が、いつの時代のことをあらわしたものかはわからないが、土器作りや鍛冶がいずれも古墳時代の先端産業だったという事実は、さまざまな想像を膨らませるのに十分である。
小高い丘に建つ土師神社は、野見宿禰を祭神として祭っている。土師氏は野見宿禰を祖先と仰ぐ氏族で、古墳の造営や埴輪・土器などの生産をおこなった集団である。土師神社がある場所の大字は土師、小字は梶ヶ谷(かじがたに)といわれる。梶ヶ谷は「鍛冶(かじ)」に通じるのであろうか。この場所の小字名が、いつの時代のことをあらわしたものかはわからないが、土器作りや鍛冶がいずれも古墳時代の先端産業だったという事実は、さまざまな想像を膨らませるのに十分である。
用語解説
龍野城
龍野の町並みを見下ろす鶏籠山のふもとに、龍野城がある。この城は16世紀の初めに赤松氏(あかまつし)によって築城され、幾度もの変遷を経て、脇坂氏(わきさかし)でその歴史を閉じている。白壁の塀に沿って城跡へ続く石畳を登ると、正面が復元された本丸へ向かう櫓門(やぐらもん)、右手には龍野歴史文化資料館がある。背後の鶏籠山頂は、詰の丸とも呼ばれる戦国期の山城だが、江戸時代に使われることはなかった。現在の本丸には、復元された櫓や御殿が建つ。
城跡の北西からは、鶏籠山山頂へ登る山道が整備されている。
城跡の南西、龍野小学校のそばを通る道に面して、家老門が残されている。龍野藩の家老屋敷の門と伝えられる重厚な門で、たつの市の文化財に指定されている。この付近では、小学校のプールを囲む塀も、白壁、瓦葺(かわらぶ)きに造られていて、城下町の景観が保たれているのは訪ねる者にとって本当にうれしいことである。
家老門あたりから見る城跡は美しい。背後の緑に白壁が映える。春には桜が彩りを添えてくれるそうで、ここに住んでいる人たちがうらやましくもある。
他にも、龍野の市街には近世~近・現代の歴史をとどめる場所が多い。時には伝説の旅から少し離れて、町中に残る歴史的な場所や風景を探してみるのも楽しいのではないだろうか。