【野見宿禰】のみのすくね

   『日本書紀』に登場する人物。相撲の神。出雲国(いずものくに)出身で、天穂日命(あめのほひのみこと、またはアメノヒボコノミコト)の14世の子孫と伝えられる。垂仁(すいにん)天皇の命により、当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり、互いに蹴り合い腰を踏み折って勝った。その後、大和国当麻の地を与えられ、朝廷に仕えたという。

   『日本書紀』によると垂仁天皇の皇后の葬儀の時、殉死に替えて埴輪を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられたとされるが、考古学的にはこうした埴輪起源伝説は誤りである。土師氏は代々天皇の葬儀を司り、後に姓を大江や菅原などに改めた(菅原道真は野見宿禰の子孫ということになる)。

 

  『播磨国風土記』では、播磨国の立野(兵庫県たつの市)で病により死去し、その地に埋葬されたとする。

 
【垂仁天皇】すいにんてんのう

 第11代の天皇。記紀によれば、丹波から日葉酢媛(ひばすひめ)を迎えて皇后としたという。日葉酢媛が亡くなった時、野見宿禰(のみのすくね)の進言に従い、殉死に替えて土で作った人形を置いたとされる。埴輪の起源説話として著名。また『古事記』では、石棺作りや土器・埴輪作りの部民を定めたとしている。このほか、相撲の起源説話、天日槍(あめのひぼこ)渡来、田道間守(たじまもり)の伝説などが知られる。153歳まで生きたとされるなど、伝説的要素が強く、史実性は確かではない。

 
【播磨国風土記】はりまのくにふどき

 奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

 
【装飾付須恵器】そうしょくつきすえき

 古墳時代後期に見られる須恵器の一種。大型の壺(つぼ)、高坏(たかつき)、器台などに、ミニチュアの壺や人物・鳥・動物などの小像をつけたもの。ミニチュアの壺を多数つけたものは、「子持須恵器」と呼ばれることもある。

 
【土師氏】はじし

 古代の豪族。姓(かばね)は臣(おみ)であったが、後に連(むらじ)、次いで宿禰(すくね)となった。アメノヒボコの14世孫である野見宿禰(のみのすくね)を始祖とし、土師部を率いて土器(土師器)、埴輪の製作や、天皇の葬儀に従事した。奈良時代以降、土師氏から菅原氏、秋篠氏、大枝(大江)氏などが分かれた。

 
【埴輪】はにわ

 古墳に立て並べた、日本固有の焼物。岩手県から鹿児島県にかけて分布する。古語で土あるいは粘土を意味する「ハニ」に通ずる。筒状の円筒埴輪と、人をはじめさまざまな器物や動物をかたどった形象埴輪とがある。

 起源は円筒埴輪の方が古く、弥生時代末に埋葬儀礼に用いられていた器台と壺(つぼ)が祖形である。形象埴輪は古墳時代前期後半頃から登場することから、野見宿禰を埴輪の始祖とする『日本書紀』の伝承は事実と相違する。

 
【龍野城】たつのじょう

 たつの市龍野町にある城跡。別名朝霧城。16世紀初頭、赤松村秀によって、鶏籠山山頂に築かれた山城に始まる。天正5(1577)年に、城主赤松広英が羽柴秀吉に降伏して赤松氏の支配は終わった。

 江戸時代初め、本多政朝が龍野藩主となり、鶏籠山山麓に城を移した。その後、藩主は小笠原氏、岡部氏、京極氏と変わり、1672年に脇坂氏が入って幕末まで藩主をつとめた。