【播磨国風土記】はりまのくにふどき

 奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

 
【伊和大神】いわのおおかみ

 宍粟市一宮町の伊和神社の祭神。大己貴神(おおなむちのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)とも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)とも記されている。

 播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、渡来人(神)のアメノヒボコ(天日槍・天日矛とも書く)との土地争いが伝えられている。

 風土記には、宍粟郡から飾磨郡の伊和里(いわのさと)へ移り住んだ、伊和君(いわのきみ)という古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神と考えられている。

 なお、伊和神社の社叢(しゃそう)は、「兵庫の貴重な景観」Bランクに選定されている。

 
【アメノヒボコ】あめのひぼこ

 天日槍・天日矛とも書く。またアメノヒボコノミコトともいう。

 記紀や『播磨国風土記』などに記された伝説上の人物。新羅の王子で、妻の阿加留比売(あかるひめ)を追って日本に来たという。その後、越前、近江、丹波などを経て但馬に定着し、その地を開拓したとされている。出石神社の祭神。

 
【伊和氏】いわし

 『播磨国風土記』に、「伊和君」として記される古代豪族。『播磨国風土記』によれば、もと宍粟郡の石作里(いしづくりのさと)を本拠とし、飾磨郡の伊和里(いわのさと)に移り住んだとされる。伊和大神を奉じ、これを祭る伊和神社は、宍粟市一宮町に所在する。

 
【伊和中山古墳群】いわなかやまこふんぐん

 宍粟市一宮町伊和に所在する、古墳時代前期~後期の古墳群。伊和神社の南東にある丘陵上に、前方後円墳1基を含む16基の古墳が確認されており、うち1号墳と2号墳の発掘調査がおこなわれている。

 古墳群中最大の1号墳は、全長62mをはかる前方後円墳で、竪穴式(たてあなしき)石室内に全長5mの木棺を埋葬していた。副葬品には国産の方格(ほうかく)T字鏡、環頭大刀(かんとうたち)、剣、鉄鏃(てつぞく)、鉄槍(てっそう)、鉄斧(てっぷ)、玉類がある。揖保川上流域における古墳時代史を研究する上で重要な古墳群である。

 
【出石神社】いずしじんじゃ

 豊岡市出石町宮内に所在する式内社(しきないしゃ)。但馬国の一宮(いちのみや)。アメノヒボコを祭神とし、アメノヒボコが新羅よりもたらした八種神宝(やくさのかんだから)を祭る。

 
【瀬戸の岩戸の開削】せとのいわとのかいさく

 『出石神社由来記』による伝承。かつて入江、あるいは潟のような状況であった豊岡平野を、瀬戸の岩戸(現在の豊岡市来日岳(くるひだけ)付近とされる)を開削することによって排水し、耕地として開拓したという内容である。

 
【出石城】いずしじょう

 豊岡市出石町に所在する城跡。天正2(1574)年に、山名氏によって有子山山頂に築かれた有子山城を端緒とする。天正8(1580)年に、有子山城は羽柴秀吉の但馬攻撃により落城した。慶長8(1604)年、小出吉英により有子山山麓に築かれた平山城が、現在の出石城跡である。本丸と二の丸を山腹に、三の丸を平地に配する梯郭式(ていかくしき)の城で、山頂の城へとつながる。

 小出氏の後は、松平氏、仙石氏と続き幕末に至った。明治元年にすべての建物が取り壊された。

 
【御出石神社】みいずしじんじゃ

 豊岡市出石町桐野にある式内社(しきないしゃ)。アメノヒボコと出石乙女が祭られている。出石乙女は『古事記』において、八種神宝(やくさのかんだから、アメノヒボコが新羅からもたらした宝物)を神とした「伊豆志之八前大神」の娘とされる。多くの神に求婚されたがこれを退けて、春山之霞壮士(はるやまのかすみおとこ)と結ばれるという伝説が語られている。

 
【藤無山】ふじなしやま

 宍粟市と養父市の境界をなす山地にある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山である。尾根筋付近は植林地となっている。