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古文書からわかるたたら製鉄と地域社会

江戸時代の播磨北西部では、幕府や藩が管理する山林を、製鉄の事業者が期間限定で請け負い、そこから砂鉄や木炭などの資源を利用してたたら製鉄を操業していました。この製鉄業に用いる山のことを「鉄山」(てつざん、かなやま)といいます。
兵庫県立歴史博物館には、この鉄山にかかわる古文書がいくつか残されています。ここでは、そうした古文書の一部から、たたら製鉄と地域社会との関係を読み解きます。

兵庫県立歴史博物館所蔵『宍粟郡鉄山請負御用留』解説文

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この史料は、宍粟郡のたたら製鉄に関する文書を書き留めたもので、同郡山崎町を拠点に製鉄業を営んだ千草屋源右衛門家(山崎平瀬家)の人物によって編まれたものと考えられています。ここに収録されているのは、主に1653年(承応2) ~1702年(元禄15年)に作成された文書を書き写したものです。
ここで紹介しているのは、1701年(元禄14)に幕府の巡見使へ提出された文書の一部です。これによると、「鉄砂取様之儀」つまり砂鉄を取るため、山奥で溝を掘って水を流していたことが書かれています。溝を掘る距離は「五町・拾丁或壱里」(約550m~1.1km、あるいは4km)にもおよぶものでした。
また、「鉄山抱之者」(鉄山の労働者)が500人程度いることや、たたら(鑪)から取り出した鉄のかたまりを選別し鍛冶屋へ渡すことなど、たたら製鉄業の具体像を知ることができます。

兵庫県立歴史博物館所蔵『鉄山一件』解説文

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この史料は、鉄山の請け負いに関する手続き書類の控えで、宍粟郡の山林を管轄していた幕府の出先機関である「山方役所」が作成したものと考えられます。
ここで紹介しているのは、1787年(天明7)に作成された文書の控えで、「鍋ヶ谷山」という鉄山の経営に関するものです。この鉄山には、複数の製鉄業者が請け負いを希望しましたが、入札の結果「鳩屋孫右衛門」という業者が請け負いました。鳩屋は12年にわたって操業を続けましたが、この山を「伐り尽」くしたため、場所を替えて操業することを山方役所へ願い出ています。
ここには、鉄山経営にあたっては、周辺の村々から多くの労働者を雇用していることが記されており、鉄山と地域社会とのかかわりをうかがうことができます。

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