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解説
福富草紙の享受史(2)
~兵博乙本(二巻本下巻)と春浦院本系~
春浦院本系の転写
伝本の総数からみると、春浦院本系が最も多く残されていることを、先に述べました。では、なぜこうした模本が制作されたのでしょうか?
たまたまこの系統が流布していたのでしょうか?
この春浦院本系の伝本は、宮内庁書陵部本を最古本として東京藝術大学美術館本を下限に、江戸時代後期から明治期まで、約100年間というかなり狭い範囲で、集中的に転写されています。これは絵画様式から年紀のない他の伝本も同じで、いずれも江戸時代後期の作と判断されます。
興味深いのはそれぞれの来歴です。祖本は土佐光信筆と伝承され、それを師匠筋の土佐派絵師が写し、さらにそれを弟子が転写してゆく、という模本制作の過程が見受けられるのです。筆者や書写年次の確認できる伝本から、来歴を確認しましょう。
まず宮内庁書陵部本は、寛政10年の奥書によると松浦公の求めで、土佐光信筆「福富草紙」を粟田口直隆が臨模した1巻といいます。これは注文主である松浦公(平戸藩主松浦清か)のコレクション形成に関わる転写と見なされますが、祖本の筆者を土佐光信に求める早い例として注目されます。
つぎに国立国会図書館本は、文政元年(1818)に狩野洞白(1772~1821)の所蔵本から緱山正禎(1780~1840)が模写したものです。巻頭に「主土佐内記」と墨書され、その傍らには住吉如慶について注記されています。
アメリカ議会図書館本は、もともと住吉絵所の伝本を飯塚廣美が転写し、文化3年(1803)にその転写本を本多忠憲(1774~1823)が描き写し、文政7年(1827)にその忠憲本を弟子の藤原正憲が転写した作品であることが、奥書によってわかります。この文政7年の藤原正憲による奥書には「詞ハ誰人 … にやさだかにもあらず畫ハ土佐の光信なるよし …」とあり、祖本「福富草紙」の筆者は土佐光信であるといいます。
また西尾市岩瀬文庫本は、書写識語によると天保11年に「住吉内記」の秘蔵する伝本を貴志忠美(朝暾:~1857)が一部抜き書きしたものです。その内題と巻頭注記にも「福富翁草子〈土佐光信筆〉住吉内記蔵巻書抜」とあります。本奥書には「忠憲云(中略)詞は誰人のつらねかけるにやさたかにもあらす画は土佐の光信なるよし」とあり、有職故実に精通した本多忠憲が、筆者を土佐光信とみなしたことが記載されています。
東京藝術大学美術館本は、「住吉内記」の所蔵する土佐光信筆からの写しを、住吉派の絵師の荒井尚春(忠施)が模写したものを手本に、明治19年に弟子の在原重寿(古玩 1828~1922)が模写したものです。
以上のように公開されている書誌情報や画像情報から、来歴の基本事項をまとめました。このなかで、とりわけ西尾市岩瀬文庫本にみる土佐光信筆の伝承が、アメリカ議会図書館本の文政7年の奥書と完全に符合することに注目されます。アメリカ議会図書館本が飯塚廣美による住吉絵所本の写しから端を発したことを鑑みれば、その師である住吉広行(1705~1777)が、筆者の見立てに関わっていたのかもしれません。
模本制作については、これまでは古画学習のため、あるいは絵師の手控えや絵手本とするためと説明されてきました。白描や淡彩のものや、彩色の指示が書き込まれたものも少なくないためです。またクリーブランド美術館本系のように、主流ではない伝本系統の分析から絵巻物の本来の姿を知るために、模写されることもあったようです。
しかし春浦院本系に関してはその背景に、①住吉絵所に春浦院本系の絵手本が存在したこと、②その絵手本は土佐光信筆本からの写しとされたこと、③ときに住吉内記(如慶)による写しとされることもあったこと、④新たに模写するのは住吉派の絵師であったこと……、これら4つの要因が横たわっています。
土佐光信筆や住吉如慶筆と推定できる「福富草紙」は、系統の如何を問わず、今のところ確認されていません。とすれば、絵師にとって春浦院本系「福富草紙」を転写することは、土佐光信-住吉如慶から相承される絵師系図の正当性を担保する、重要なアイテムを得る行為だった、という側面もあったのではないでしょうか。
模本を制作することで、④住吉派の絵師自らが、②③の伝承を「事実」として語り継いでいく役割を果たしたていたのです。
春浦院本系の錯簡
絵場面の順にも注目しましょう。
「福富草紙」の大部分の伝本では、物語は次の順でクライマックスを迎えます。クリーブランド美術館本系と一巻本系統のすべて、そして春浦院本系でも「住吉内記」本の写しは、いずれもこの場面の順です。
腰を踏む妻
祈祷する妻
排便する翁
薬を請う妻
腰を踏む妻
祈祷する妻
排便する翁
薬を請う妻
しかし、春浦院本系のみには2種類の錯簡が存在します。宮内庁書陵部本と兵庫県立歴史博物館乙本では、(10)祈祷する妻と(12)薬を請う妻の順が入れかわっているのです。
腰を踏む妻
薬を請う妻
排便する翁
祈祷する妻
立教大学図書館本と個人蔵本(安永4年〔1775〕、狩野養川院惟信筆)では、宮内庁書陵部本=兵庫歴史博物館乙本の並びから(9)腰を踏む妻の段落が、(11)と(10)の間に入った順となっています(*19)。
薬を請う妻
排便する翁
腰を踏む妻
祈祷する妻
この錯簡を扱う問題は、研究史上まだ決着はついていません。それでも宮内庁書陵部本と兵庫県立歴史博物館乙本では、絵場面や画中詞まで増補されているため、物語の自然な展開を追求して、故意的に校合したのではないか、と推測されます。
第8段落が増長して、裸で震える翁を大勢の群衆が見物しているのです。 しかも兵庫県立歴史博物館乙本は、彩色が異なる上下巻揃いの「異本」(同じ二巻本系統の春浦院本系)も、後半部に抜き書きしています。江戸時代後期の絵師たちが、何百年も前に作られた絵巻物からなにかを学びとろうとしていたのは確かです。その前半部の手本とされたのは、書写識語「千春之本」から、土佐派の絵師である高島千春(1777~1859)の所持していた伝本と推定されます。これを写したのは土佐光孚(1780~1852)で、それを弟子筋にあたる土佐派の絵師がさらに模写したのが、兵庫県立歴史博物館乙本です。
また土佐光孚による本奥書によれば、「千春之本」の詞書は貞成親王筆、絵は土佐隆成筆と見なされています。この見立ては、春浦院本の箱書墨書の内容と一致するものです。しかし一方で、同じ絵場面の順である宮内庁書陵部本は、土佐光信筆だと見なされていました。筆者の伝承が揺れうごいているのです。
この時代、大型プロジェクトとして松平定信(1759~1829)による『集古十種』や、『古画類聚』が続々と編纂されていました。とくに『古画類聚』では、過去の絵画や絵巻物が網羅的に集められ、モチーフごとに模写され、「福富草紙」も16図が収録されました。その目録には「福富草紙 妙心寺蔵 光信筆」とあり(*20)、春浦院本が土佐光信筆と見なされたことが知られます。
その伝承が移り変わったのは、兵庫県立歴史博物館乙本の識語にあるように、有職故実に精通した高島千春の見立てだった可能性があります。住吉派周辺によるアメリカ議会図書館本や西尾市岩瀬文庫本などで、絵手本の「住吉内記」本が土佐光信筆と伝承されつづけた現象とは、若干事情が異なるようです。歴史的な真実とは別に、こうした絵師の伝承が当時の社会的文化圏において、大切な役目を担っていたこともまた真実です。土佐光信や土佐隆成だと「伝承」されることで、「福富草紙」への関心は高まり、また「伝承」も見直され、積極的に写し継がれてきたのです。