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解説

福富草紙の享受史(1)

~兵博甲本(一巻本)とクリーブランド美術館本系~

クリーブランド美術館本系

クリーブランド美術館本は、明るい賦彩や張りのある的確な線描に、絵師の技量の高さがにじみでる優品です。ですが先にあげた通りその模本の数は少なく、いずれも江戸時代後期の制作と推定されます。手本となるクリーブランド美術館本は筆者不明、それを写す江戸時代の絵師もすくなくとも職業身分としての絵師ではありません。
ちなみにフランス国立図書館本の筆者は慈光寺実仲で、彼は公家であり、画風の類似から早稲田大学所蔵「文観阿闍梨絵巻」(江戸時代後期)の筆者ではないかと推定されます(*09)。
そのほかクリーブランド美術館本系には、江戸時代の模本である東北大学付属図書館本や個人蔵本(文政4年〔1821〕銘)(*10)のように、「福富画本妙心寺海福(寺)院秘蔵詞書宸翰ノ某卿画ト云々」と奥書されるものがあります。詞書は天皇宸筆だけれど、絵は某卿で、潔く絵師不明のまま貫かれています。
これはクリーブランド美術館本が、権威的な絵師の伝承を必要としなかったことを暗示しています。
また、上巻が付属していません。おそらくクリーブランド美術館本は、もともと下巻だけで独立していたか、あるいは早くに上巻を散逸して零本となったのだろうと、推測されています(*11)。
それでも大阪大谷大学本やフランス国立図書館本などは、下巻の図様はクリーブランド美術館本系を写し、上巻にわざわざ春浦院本の写しを補って、上下二巻を揃えているのです。
模写された数が少ないとはいえ、珍重されたことがうかがえます。
このクリーブランド美術館本は、冷泉為恭(1823~1864)や益田孝(1848~1938)の旧蔵と考えられます(*12)。それ以前の来歴については、東北大学付属図書館本や個人蔵本の奥書から、妙心寺の塔頭である海福(寺)院に秘蔵された、と推定されます。
個人蔵本の奥書には、さらに「文政四年辛巳十月日野々山維山異本借覧校合/藍河(花押)」とあります。「野々山維山」が「野々山緱山」の誤記だとすれば、春浦院本系である国立国会図書館本のツレの下巻(所在不明)を借りて、詞書を校合したことになります。
江戸時代後期には、塔頭は春浦院と海福院と違うけれども、妙心寺に春浦院本とクリーブランド美術館本系の、2種類の「福富草紙」が存在していたようなのです。
そしてクリーブランド美術館本は、原本の筆者像に拠るのではなく、春浦院本とは異なる特徴がある点で、珍重されたのだと考えられます。

参考文献を見る
  • 09:内田啓一「早稲田大学図書館所蔵『狐絵巻』と『文観阿闍梨絵巻』」『早稲田大学図書館紀要』62号 2015年
  • 10:松本寧至「『福富草紙』の復元-『福富長者物語』の構成にも及ぶ」『中世文学の諸問題』新典社 2000年
  • 11:松浪久子1981
  • 12:国立国会図書館デジタルコレクション 益田孝旧蔵「大師会図録 第16回」平田久編 1912年

一巻本の派生

さて、二巻本系統から派生した一巻本ですが、クリーブランド美術館本系から分岐したことが判明します。公開された画像をつぶさにみると、一巻本の伝本はいずれもクリーブランド美術館本系に特有な図様が描かれて、同系の段落順とも全て一致することが確かめられるからです。
一巻本の系統には主に次の伝本が存在します。

一巻本
  • 出光美術館「福富草子絵巻」1巻(*13)※絵段と詞書段が交互に配置され、詞書は主人公の名を特定しない短い文章となっている。
  • 常福寺「福富長者物語」1巻(*14)※金沢市公式ホームページ>文化財と歴史遺産>常福寺北方心泉関係資料
  • 兵庫県立歴史博物館「福富草紙(甲本)」1巻
  • 国際日本文化研究所「福富長者物語」1巻本 神谷栄府詮敬筆 安永4年(1775)
  • 白百合女子大学図書館「福富草子」1巻
  • 東洋文庫(岩崎文庫)「福富草子絵巻」1巻

このうち一巻本の詞書を完存する最古作は、常福寺本と兵庫県立歴史博物館甲本の2本となります。画像を比較検討したところ、どちらも春浦院本やクリーブランド美術館本よりも下る16世紀後半以降(室町時代後期)の制作ではないか、と管見では推測されます。少なくとも兵庫県立歴史博物館甲本は、16世紀末~17世紀初頭(室町時代後期)と位置づけられます。

歌一・為一(甲本)

この一巻本「福富草紙」の詞書は、先行する二巻本「福富草紙」下巻の絵に合せて、新たに創作されました。二巻本から内容が乖離して、独特の世界を作り上げてもいます。
たとえば二巻本では、脇役たちにはほとんど名前がありません。
それに対して一巻本では、脇役たちは妙西、御御前(おごう)、和気清麻呂、歌一・為一、侍従殿などと名づけられて、個性を放っています。
また主人公たちは、もともと二巻本では凝った名前と身分が設定されていました。成功する翁は高向の秀武といい、香敷師を生業とする職人です。失敗する翁が「福富」といい、七条に住み、その坊の刀禰をしています。この職業から、福富の刀禰、略して富刀禰と、愛称されています。またその妻は富刀禰が妻(め)や、刀禰が妻と通称されます。
それに対して一巻本では、「福富」は成功する翁の名前となり、失敗する翁は「乏少藤太」と名付けられています。失敗する翁の妻は、鬼姥や、姥、と通称(半ば蔑称!?)されます。わかりやすい名前により、人物造形が強調されています。

甲本 6段落

このように一巻本では、脇役も主人公たちも、年齢・性別により一般化された「庶民」として、人物造形が誇張され、「笑い」が引き立てられているのです。
「笑い」といえば、詞書に下ネタ言葉が多いことも一巻本系統の特徴です。尻や股間を述べるために「ゐどころ」、「桃尻」、「ふぐり」、「おいど」……とさまざまに言葉が尽くされ、屁は「おなら」、小便についても「し(しし)」(類本には大便「ばば」も)と、直接言及されます。
さらにオノマトペがふんだんに使用されることも特徴です。「くろぐろ」、「ぬるぬる」、「はうはう」、「ひたひた」、「ねるねる」、「めらめら」、「びよびよ」、「しんちよ」、「きりきり」、「ことと(ことこと)」、「のろのろ」、「やせやせ」、「しかじか」、「ひしひし」、「がぶ」……。
こうした下ネタ言葉やオノマトペは、成人男性が公的に使用していたものとは考えられません。その多くが女房詞や幼児語であり、しかも17世紀初頭にならないとほかの使用例が見いだされないものあると、国語学者により指摘されています(*15)。
つまり一巻本系統は、詞書から「16世紀末~17世紀初頭の上流武家の周囲に仕えていた人物(もしかしたら女性?)が、「物語」の文章を作成したのではないか」と、考えられるというのです。これは、兵庫県立歴史博物館甲本の制作時期とも重なるものです。
15世紀半ばに、祖型の二巻本系統「福富草紙」を享受していた層は、文化的な中枢を担った権力者などでしたが、16世紀末以降には一巻本系統の享受者層は女性へと移り変わっているのです。

参考文献を見る
  • 13:出光美術館編『やまと絵:出光美術館蔵品図録』平凡社、1986年
  • 14:室木弥太郎 1969年 『常福寺蔵:「福富長者物語」現代訳』北方心泉顕彰会 2006年
  • 15:染谷裕子「「福富草紙」の二系統の本文について-その語彙の比較から考える-」『人間文化研究』第1号 2003年

一巻本の特徴

一巻本系統「福富草紙」は、セリフのみで物語を進行する代わりに、幼児語・女房詞を多用した地の文章に磨きをかけました。
こうした二系統の詞書における差異は、絵詞の書き込みがなかった二巻本(クリーブランド美術館本系「福富草紙 下巻」)が存在し、それをもとに一巻本が成立したため生じたのかもしれないと、推測されています(*16)。
実際、一巻本のうち最古本の一つである出光美術館本には、画中詞ではなく、絵場面と絵場面の間に挿入された別紙に、要約のような短い詞書を記しています。福富織部という登場人物の名前すら、語られません。
詞書不在という一時的な端境期を経て、読むことで絵をより面白く鑑賞できるような方向へと、一巻本の詞書は成立したのです。それも読み手に、武家階級の子どもや女性を想定して……。そうしてみると、やや芝居がかった文章、絵を絵解きするような文章を展開することも、特徴として納得されます。初学者たちにわざわざ言い聞かせているのです。

たとえば第2場面で、乏少藤太の貧乏暮らしの説明はあまりに冗長です。
詞書「あまり寒さに風をいれける」が、16世紀頃に流行した連歌「あまり寒さに風を入れけり、賤の女があたりの垣を折りたきて」と類似すると指摘されており(*17)、物語の読み手が親しむにふさわしい文芸の一端をほのめかします。
また一巻本では、二巻本で「みさき神たち」(使役神)とされた烏を熊野権現の使いとし(第10場面)、二巻本で「いみじき薬」とされた椀の中味を「湯水」(第11場面)とするなど、細部にモチーフの読み替えがなされています(*18)。
この他にも、少女たちが覗く衝立を「軟障だつ物」(第8場面)、腰の骨を踏むために取りついた衣紋竹を「衣桁」(第9場面)、乏少藤太が両手を突く石を「砧の盤」(第11場面)……などなど、二巻本の詞書では言及されなかった絵画モチーフについて、一巻本では(独特の解釈を交えながらではありますが)、物の名前をあげて説明します。

乙本 12段落

さらに一巻本の成立を考えるうえで興味深いのは、最終場面、鬼姥が福富織部に噛みつく姿を描写する箇所です。
「目は逆さまに切れ、口は耳の根まで広がりて息まくは、蛇体にや変はりつらん」(第13場面)
「蛇体」という表現には、単なる生物としてのヘビではなく、「道成寺縁起」にて恋する安珍を追いかけ蛇となる清姫の姿、あるいは「華厳宗祖師絵伝」にて恋する義湘を追いかけ龍となる善妙の姿が、重ねられているのでしょう。

甲本 11段落

「道成寺縁起」の原型成立は室町時代初期に遡るとはいえ、ある程度広く受容されるのは、足利義昭(1537~1597)の花押の在る「(重要文化財)道成寺縁起」(道成寺蔵)が制作された時期からではなかろうか、と思われます。
真剣な恋が高じての蛇体も、「福富草紙」では、色恋もない翁と媼の、水辺もない洛中でのやりとりであり、元ネタとのギャップが、笑いを誘います。
このように一巻本系統「福富草紙」は、幼児語・女房詞を多用して、しかも読み手に受け入れやすい形で、文章を展開しました。一巻本系統が成立した16世紀末~17世紀初頭に、連歌に親しみ、「道成寺縁起」などの社寺縁起にも親しんでいた武家階級の子どもや女性のために、この絵巻物はきっと良き楽しみをもたらしていたに違いありません。

参考文献を見る
  • 16:美濃部重克1979年。
  • 17:美濃部重克1979年。一巻本第2場面の詞書は、明応8年(1499)序文をもつ『竹馬狂吟集』巻一〇雑の部や、山崎宗鑑編『犬筑波集』雑部、『絶句賢愚抄』の「あまり寒さに風を入れけり、賤の女があたりの垣を折りたきて」とある連歌に類似する。
  • 18:美濃部重克1979年。

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