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解説!源平合戦図屏風場面解説
平通盛と小宰相局たいらのみちもり と
こさいしょうのつぼね
猟師の翁に道を問うりょうしのおきなに
みちをとう
熊谷と平山の先陣争いくまがいとひらやまの
せんじんあらそい
2月7日の早朝、義経勢の中から抜け駆けしてきた熊谷直実(くまがいなおざね)は、まだ暗いうちに一の谷の西の木戸口(きどぐち)にたどりつき、一番に大音声で名乗りをあげました。平山季重(ひらやますえしげ)もわずかに遅れ、そのすぐ後からやってきていました。
やがて夜が明け、平家方が門を開いて応戦をはじめると、熊谷・平山も先を争って攻めかかっていきました。熊谷は馬を射倒されてしまいましたが、子息の直家(なおいえ)と二人、一歩も引かずに戦い続けました。平山は旗差(はたさし)の従者を討たれながらも、平家方が迎え撃つために開けた門の中へ一番に飛び込んでいったのでした。
生田の森いくたのもり
源範頼(のりより)が率いる部隊は、生田(いくた)の森から平知盛(とももり)・重衡(しげひら)が守る平家陣に攻め込みました。現在の三宮駅付近には、当時は生田神社の森が広がっていました。
『平家物語』では、生田森合戦の記述の中に、先陣を切ろうと敵陣に突進し、平家方の真名辺五郎(まなべごろう)の強弓の前にあえなく討ち死にした河原(かわはら)兄弟の話や、一旦退却した源氏方の梶原景時(かじわらかげとき)が、敵中に取り残された子息の景季(かげすえ)を助けようと再び攻め込んでいった「梶原二度の懸け」などのエピソードが記されていますが、この屏風には描かれていません。そうしたエピソードよりも、多くの軍兵が入り乱れた迫力ある合戦場面を描ききることが優先されたようです。
平家方の城郭へいけがたのじょうかく
平家方の城郭が描かれています。平家方は、現在の三宮駅付近に広がっていた生田の森と、須磨駅付近にある一の谷とに陣地を構えました。生田の森と一の谷とはおおよそ10km離れており、この合戦は実際にはかなり広い範囲を舞台に戦われたものだったのですが、この屏風では両方の間を圧縮して一つの画面に収めていることになります。
なお、この屏風での城郭の描かれ方については、「屏風はどこまで本当なの?」もご覧下さい。
鹿を射るしかをいる
坂落としさかおとし
義経勢は、眼下はるかに見える平家陣に、まずは鞍を乗せた馬を落として見ました。途中で倒れてしまう馬もありましたが、三頭が無事平家方の陣内にたどりついて立ち上がりました。
これを見た義経は、先頭を切って断崖を駆け下りていきました。しかし中腹に大岩盤の絶壁があり、さしもの東国武者たちもみなひるみます。すると軍勢の中から進み出てきた佐原義連(さわらよしつら)が、「こんなところは俺の地元の三浦(神奈川県)では馬場も同然!」と勢いよく叫んで、真っ先に落としていきました。これに続いて軍勢みな目もくらむような絶壁を駆け下り、平家の陣へと殺到していったのでした。
これが古来有名な坂落としのエピソードですが、その場所は、現在の一の谷の背後の鉢伏山(はちぶせやま)・鉄拐山(てっかいさん)か、福原近くへ降りる鵯越(ひよどりごえ)か、あるいはその両方からなのか、諸説があります(「坂落としの位置」)。
忠度最期ただのりさいご
山手からの源氏方の攻撃によって、平家方は総崩れとなり、我先にと海上の船を目指して逃げ散っていきました。
一の谷を守る大将軍平忠度(ただのり)は、源氏方にまぎれて静かに落ち延びようとしましたが、やがて岡部忠澄(おかべただずみ)に見破られ、組み討ちになります。忠度は忠澄を太刀で馬から打ち落とし、組み敷いて首を取ろうとしましたが、そこへ駆けつけた忠澄の若い従者に右腕を切り落とされてしまい、観念して忠澄に首を討たれました。
忠澄は忠度のえびら(矢を入れる道具)に結びつけられた紙に書かれていた和歌を見て、はじめて討ち取った相手が歌人としても知られた忠度であったことを知ったのでした。
敦盛と直実あつもりとなおざね
熊谷直実(くまがいなおざね)は、沖の船へと馬を泳がせて逃げる平敦盛(あつもり)を見つけました。直実は扇をあげて「敵に背を見せるとは卑怯でござろう。引き返されよ!」と呼び招き、波打ち際まで戻ってきた敦盛に組みかかって馬から落とし取り押さえました。
しかし、首を掻き取ろうと兜(かぶと)を押し上げて見ると、まだ16・7歳ばかりのとても上品な少年、この戦いで手傷を負った我が子直家(なおいえ)とも同じ年格好です。直実はとたんに戦意が失せ、助けたいと思いましたが、後ろを振り返ればすぐそこまで味方の軍勢が押し寄せてきていました。逃がすことはできないと悟った直実は、泣く泣く敦盛の首を取ったのでした。
『平家物語』では、この一件以来、直実の出家を願う気持ちが強まったとされています。
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