寿永3(1184)年2月7日の生田森・一の谷合戦で、平家の公達(きんだち)敦盛(あつもり)を熊谷直実(くまがいなおざね)が討ち取ったエピソードは、現在でも比較的よく知られていると思います。『平家物語』でこの哀話が生まれたように読める神戸の須磨では、後の世の人が建てた敦盛を供養する五輪塔が、今もしずかに海を見つめています。

敦盛塚(神戸市須磨区、戦国~安土桃山時代)
敦盛と直実(源平合戦図屏風、江戸時代、当館蔵)

 この熊谷直実、『平家物語』が伝える一の谷の合戦では、もう一つ、大変な働きを見せています。まだ戦いがはじまる前、この日のまだ暗いうちから、敵陣一番乗りの功名をあげるために、同じく鎌倉勢の平山季重(ひやらますえしげ)とともに壮絶な先陣争いをくりひろげたとされているのです。『平家物語』では「一二之懸(いちにのかけ)」という節題にもなっている逸話です。

熊谷・平山の先陣争い(源平合戦図屏風、江戸時代、当館蔵)

 さて、源平の合戦を伝える『平家物語』や、鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡(あづまかがみ)』を見ていくと、実はこの戦い以前にも二度ほど、この二人のコンビが鎌倉勢の先頭に立って戦っていたという記述を見つけることができます。

 まず『吾妻鏡』を読んでいくと、源頼朝が伊豆(静岡県)で挙兵した後、富士川の合戦(静岡県富士市)で平家方を打ち破って関東の足場固めをしていた時期のこと、常陸(茨城県)の佐竹氏が頼朝に従わない姿勢を見せたので、鎌倉勢がこれを討った戦いがあります(金砂城の戦い)。『吾妻鏡』には、この戦いで熊谷と平山がたびたび先頭を切って戦ったという記事(治承4〔1180〕年11月7日条)と、やがてその功績を認めた頼朝が、直実に本領である武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)の権利を保障してあげた(寿永元〔1182〕年6月5日条)、との二つの記事が見られます。

 さらに、『平家物語』の中でも「延慶本」や「源平盛衰記」と呼ばれるバージョンでは、生田森・一の谷合戦のほんの少し前、寿永3(1184)年1月20日に鎌倉勢が木曽義仲の軍勢を打ち破った宇治川の合戦(京都府宇治市)でも、熊谷と平山がセットで登場する逸話が見られます。大将軍源義経の下知に従って橋板がはずされて骨組みだけになっている宇治橋を真っ先に渡りはじめたのが平山季重、その後に息子直家と励まし合いながら進んでいく直実ら4人の武者が続き、渡りきった直実らが敵方を散々に射倒した、とされているのです。宇治川の合戦では、生食(いけずき)・摺墨(するすみ)という名馬に乗った佐々木高綱(ささきたかつな)・梶原景季(かじわらかげすえ)の先陣争いが有名ですが、「延慶本」などではその前に平山・熊谷親子らが登場してくるのです。この「延慶本」は、『平家物語』の中でも、最もよく古い形態を残すバージョンとして知られています。

 こうして読んでいくと、熊谷と平山は一の谷だけではなく、佐竹攻め、宇治川と都合三度にもわたって危険を怖れず軍勢の先頭に立って戦った板東武者の鑑、ということになるのですが、果たしてこれはそのまま事実と受け取ってよいのでしょうか?

 まず、鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡』については、大筋では信頼すべき書物なのですが、細かな点ではいろいろと難しい問題があります。ひとまずここでの問題に限って言うと、先に述べた二つの記事のうち、頼朝が直実に本領熊谷郷の権利を保障してあげた、とするもの(寿永元年6月5日条)については、すでに大正年間に、この記事で引用されている頼朝の文書が偽物であるとする説が出されています。この説を認めると、もう一つの金砂城での熊谷・平山の記述についても少々疑わしさが出てきます。

 また、宇治川での熊谷・平山の話は、今日我々が『平家物語』としてよく見る「覚一本」などのバージョンでは登場しません。しかも「覚一本」では、熊谷は宇治川で戦った義経勢ではなく、瀬田(滋賀県大津市)で戦った源範頼(のりより)勢に加わっていたと記されています。このように、『平家物語』という作品は、バージョンの異なるテキストがたくさんあると同時に、それぞれのバージョンの間で、重要な点で食い違うところが多々あります。『平家物語』、なかでもとくに今日よく読まれている「覚一本」は、文学作品としての完成度はとても高い優れた作品です。だからこそ時代を越えて多くの人々に親しまれ続けてきた古典になっているのですが、ただ、そこに書かれている個々の逸話が事実かどうかとなると、それぞれ慎重に考えていく必要があるのです。

 このように、佐竹攻めについては『吾妻鏡』の記述に少々怪しい点があり、宇治川は『平家物語』のバージョンの間で食い違いがある、ということになります。やはり、三度も同じコンビが軍勢の先頭に登場するというのは、まずは慎重になってよく考えないといけないようです。

琵琶法師
(七十一番職人歌合、江戸時代、当館蔵)

 さて、今回は疑問点を示しただけで終わりになります。ここから先は、『平家物語』や『吾妻鏡』の史料としての性格を踏まえながら考えていくことになりそうです。

 たとえば、宇治川での熊谷・平山については、この話を載せる「延慶本」が、『平家物語』の中で最もよく古い形態を残すバージョンであることから、史実かどうかは別として、熊谷にまつわる物語の古態を示すものとして重視する説があります。そしてこの説は、熊谷、平山、そして佐々木高綱には、彼らにまつわる物語の固まりがそれぞれに作り上げられていて、それが『平家物語』に取り入れられていったのだ、という議論に発展しています。

 こうした研究に学ぶと、熊谷と平山に関する『平家物語』や『吾妻鏡』の記述が本当かどうか、という問題を考える上でも、一つの方法として、彼らにまつわる物語がどのように育て上げられていったのか、という過程を考えていく必要があるように思えます。答えが出るかどうかはわかりませんが、こうしたいわば文学と歴史との狭間に生まれる問題もあれこれ考えられること、これも古典としての『平家物語』の魅力の一つではないかと思っています。

 なお、ここで述べた話題を掘り下げたものではありませんが、生田森・一の谷合戦については4月から歴史ステーションセミナーで新コンテンツを公開予定です。どうぞご期待ください。

 ※ 編集者注)歴史ステーションセミナーはホームページリニューアルにともない、令和3年4月よりデジタルコンテンツに統合されました。