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解説!源平合戦図屏風人物紹介

人物紹介一覧

源範頼みなもとののりより

?~建久4(1193)年?

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源義朝(みなもとのよしとも)の六男で、遠江国蒲御厨(とおとうみのくにかばのみくりや=静岡県浜松市)で成長し、治承4(1180)年の兄頼朝の挙兵後に傘下に加わりました。

寿永3(1184)年1月、弟の義経とともに源義仲(よしなか)を討ち取って以来、源平の戦いでは兄頼朝(よりとも)の代官として鎌倉から派遣された軍勢を指揮しました。生田森・一の谷合戦後は一旦鎌倉へ戻った後、再び中国地方の平家方の追討に向かいますが、兵糧や兵船の不足によって苦戦しました。しかし、翌元暦2年(1185)1月には九州へ渡り平家方を攻撃、3月の壇ノ浦合戦では陸上から義経率いる水軍を支援しました。

義経追放後も頼朝に仕えていましたが、建久4(1193)年、頼朝から謀叛の疑いをかけられて伊豆国修善寺(いずのくにしゅぜんじ=静岡県伊豆市)に幽閉されました。その後の消息は途絶えますが、まもなく殺害されたものと見られています。

源義経みなもとのよしつね

平治元(1159)年~文治5(1189)年

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源義朝の九男で、陸奥国平泉(むつのくにひらいずみ=岩手県平泉町)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護を受けていましたが、治承4(1180)年、兄頼朝挙兵の報せを聞いて頼朝のもとへ駆けつけました。

寿永2(1183)年、源義仲を討つため頼朝の代官として京都へ向け出陣、生田森・一の谷合戦後は京都にとどまり治安維持や平家残党の追討に努めました。元暦2(1185)年2月、讃岐国屋島(さぬきのくにやしま=香川県高松市)を攻略、ついで3月の長門国壇ノ浦(ながとのくにだんのうら=山口県下関市)合戦では水上の主力部隊を率い、平家を滅ぼしました。『平家物語』では、いずれの戦いでも義経の優れた武勇と知略が源氏を勝利に導いたように描かれています。

しかし、その直後から頼朝との対立が深まり、文治元(1185)年11月、頼朝打倒の兵を募るために都を落ちて西国を目指しましたが、大物浦(だいもつうら=兵庫県尼崎市)沖で嵐のために遭難し、その後平泉へ逃れました。しかし、義経を庇護していた秀衡が没した後、文治5(1189)年4月、頼朝の圧力に屈した秀衡の子泰衡(やすひら)によって攻撃され、殺害されました。

こぐい坂

戦争と怨霊

弁慶べんけい

?~文治5(1189)年?

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源義経の忠臣として知られる僧兵。同時代史料の中では、文治元(1185)年の義経都落ちに従った郎党(ろうとう)の中に名があらわれる程度です。『平家物語』でも、目立って活躍する場面は少ないのですが、義経の郎党として随所に名前は現れています。

そして、室町時代に成立した『義経記(ぎけいき)』以降の文学作品などでは大活躍を見せるようになります。『義経記』では、京都五条の大橋で若き日の義経と決闘して以来、義経に忠実に付き従う家来となったとされます。平家が滅亡した後、頼朝と対立した義経が大物浦で遭難してからもつねにそばに従い、東北地方を目指して逃亡する途中の北陸道では、弁慶の活躍によって幾多の危難を切り抜けたとされています。そして、藤原泰衡に義経が攻められた最期の場面では、義経をかばって身に無数の矢を受けながら奮戦、やがて立ったまま絶命した、と描かれています。

弁慶ここにあり

熊谷直実くまがいなおざね

永治元(1141)ごろ~建永2(1207)年、
もしくは承元2(1208)年。

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武蔵国熊谷郷(むさしのくにくまがいごう=埼玉県熊谷市)を本領とした武士。平家全盛期には平知盛(とももり)に仕えており、頼朝の挙兵後に傘下に加わりました。晩年は浄土宗(じょうどしゅう)の開祖法然(ほうねん)の弟子となって出家しました。最期にあたっては、極楽往生予告の高札を立て、集まった人々が見守る中で往生したと伝えられています。なお、往生した年については、史料によって建永2(1207)年9月とするものと承元2(1208)年9月とするものとがあります。

『平家物語』では、一の谷で平敦盛(あつもり)を討ち取ったことによって出家への思いが強まったとされています。直実の出家をめぐっては、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』では、建久3(1192)年、母方の伯父である久下直光との所領争いにあたって、頼朝の面前で上手に反論できなかった悔しさのあまり、その場で髪を切って出家した、とされていますが、近年の研究ではそれ以前の建久2(1191)年にはすでに出家していたとする説が有力です。

直実は若いころこの直光の従者に近い存在として扱われていたようです。一の谷などでの奮闘は、戦功をあげてそうした過去の因縁を振り払い、独立した武士としての地位を確立しようとの動機に支えられていたと考えられています。

平宗盛たいらのむねもり

久安3(1147)年~元暦2(1185)年

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平清盛の三男。母は平時子(ときこ)。母を異にする兄重盛(しげもり)が死去した後、清盛の後継者の地位につき、治承5(1181)年の清盛死後、平家一門を率いることになりました。しかし、傾きはじめた平家一門を盛り返すことはできず、元暦2(1185)年3月、壇ノ浦で子息清宗(きよむね)とともに生け捕りになり、鎌倉に連行された後、同年6月近江国篠原宿(おうみのくにしのはらのしゅく=滋賀県野洲市)で頼朝の命を受けた義経によって処刑されました。

『平家物語』では、優柔不断な人物として描かれる場面が多く、同時代史料が示す実際の言動から見ても、激動の時代を乗り切っていく政治的リーダーには向かない性格だったようです。『平家物語』では、宗盛は処刑に臨んで、一旦唱えはじめた念仏を止めて、「清宗もすでに斬られたか?」と一言たずねてから斬られたと描かれています。政治には不向きですが、肉親への愛情にはあつい心優しい性格だったようです。

平通盛・小宰相局たいらのみちもり・
こさいしょうのつぼね

通盛:?~寿永3(1184)年
小宰相局:?~寿永3(1184)年

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通盛は平清盛の弟教盛(のりもり)の長男。越前(えちぜん=福井県)の国守を務めていた時期があったため、北陸方面での源氏方との合戦に多く出陣しています。『平家物語』では、生田森・一の谷合戦で敗走途中、湊川(みなとがわ=神戸市兵庫区)付近で七騎の敵に囲まれ討ち死にしたとされています。この戦いでは通盛の弟業盛(なりもり)も討ち死にしています。

小宰相局は都で評判の美女とされ、実際に通盛の妻だったことは同時代史料によって確認できます。『平家物語』では、通盛が一目惚れをして三年もの間手紙を送り続けても色よい返事を返さなかったのですが、やがて仕えていた上西門院(じょうさいもんいん)に諭されて通盛と結ばれたといいます。そして、通盛戦死の知らせを屋島へ逃れる船上で聞き、しばらくの間信じられずに泣き伏していましたが、七日目に乳母に決意を伝え、その晩船上から身を投げた、とされています。

平教経たいらののりつね

永暦元(1160)年?~寿永3(1184)年?、
元暦2年(1185)?

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平清盛の弟教盛(のりもり)の次男。『平家物語』では、平家一門きっての猛将として描かれています。平家の都落ち後、教経は瀬戸内海沿岸の反平家勢力をつぎつぎと打ち破ったとされ、屋島の合戦では船上からつぎつぎと源氏方を射落とす活躍を見せたとされています。壇ノ浦の戦いでは、義経を討ち取ろうとしつこく追いかけますが、義経は船から船へと軽やかに飛び移りながら逃げていきました。負けを悟った教経は、攻めかかってきた源氏方の武者を両脇に抱え、道連れにして海に沈んでいったとされています。

こうした教経の活躍については、同時代史料で裏付けが取れるものは少なく、実像はよくわからない人物です。また、教経は生田森・一の谷合戦で討ち死にしたとする史料もありますが、同時代史料の中にそれは誤報とするものも残されていて、最期は壇ノ浦で迎えたとする説が有力です。

平忠度たいらのただのり

忠度が身につけていた和歌の短冊に見入る岡部忠澄
天養元(1144)年~寿永3(1184)年

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平忠盛の六男。歌人としても優れていて、『平家物語』では、平家都落ちに際しては、自らが詠んだ和歌を当時の高名な歌人藤原俊成(としなり)に託したとされています。忠度の和歌は、その後に編纂された和歌集に収録されています。

源氏挙兵後、富士川(ふじかわ=静岡県富士市)の戦いや墨俣川(すのまたがわ=岐阜県大垣市付近)の戦いなどに大将軍の一人として出陣しています。生田森・一の谷合戦で岡部忠澄(おかべただずみ)に討ち取られました。

平敦盛たいらのあつもり

嘉応元(1169)年~寿永3(1184)年

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平清盛の弟経盛(つねもり)の三男。生田森・一の谷合戦で、平家方が総崩れになる中で、熊谷直実に討ち取られました。『平家物語』では、討ち取られた敦盛は腰に「小枝(さえだ)」という名の笛を指しており、これは祖父忠盛(ただもり)が鳥羽法皇(とばほうおう)から給わったもので、父の経盛から敦盛に譲られたものであったとされています。この戦いでは、敦盛の兄経正(つねまさ)、経俊(つねとし)も討ち死にしました。

敦盛塚(ひょうご歴史の道)

平盛嗣たいらのもりつぐ

?~建久5(1194)年

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平家の有力郎党で、生田森・一の谷合戦で討ち死にした平盛俊(もりとし)の子息。『平家物語』では、生田森・一の谷合戦では一の谷の木戸口を守っていて熊谷直実らを迎え撃ったとされ、屋島の合戦では、源義経の郎党伊勢義盛(いせよしもり)と機転の利いたヤジ合戦を繰り広げたとされています。

壇ノ浦合戦では自害せず、やがて但馬国気比(たじまのくにけひ=兵庫県豊岡市)の領主気比道弘(みちひろ)のもとに身を潜めました。しかし、建久5(1194)年に発見され、鎌倉まで連行されて処刑されました。盛嗣のように壇ノ浦以後も生き延びた有力郎党や平家一門の人物も若干存在しています。このことが後世に平家落人(おちゅうど)伝承が生みだされるきっかけになったと考えられます。

安徳天皇・建礼門院あんとくてんのう・
けんれいもんいん

安徳天皇:治承2(1178)年~元暦2(1185)年
建礼門院:久寿2(1155)年~建保元(1213)年

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安徳天皇は高倉天皇の皇子。名前は言仁(ことひと)。その母が建礼門院で、平清盛の娘。名前は徳子(とくこ)。徳子は承安元(1171)年、清盛の意向によって高倉に嫁ぎ、治承2(1178)年11月に待望の皇子言仁を産みました。治承4(1181)年2月、清盛は高倉を退位させ、言仁が即位しました。この年6月、清盛は高倉・安徳を福原(神戸市兵庫区)に移しましたが、全国で源氏方の挙兵が続く非常事態となったため、11月に京都に戻しました。高倉は翌治承5(1181)年正月病が悪化して没しています。

寿永2(1183)年7月の平家都落ち以後、安徳・建礼門院も平家一門と行動を共にしました。そして元暦2(1185)年3月の壇ノ浦合戦で、安徳は祖母二位尼(にいのあま=清盛の妻時子)に抱かれて入水しましたが、建礼門院は救助されました。その後建礼門院は京都大原に隠棲し、平家一門の菩提を弔う後半生を送りました。

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