赤松氏の歴史
年表
元弘2年(1332) | 8月 |
赤松円心が、佐用荘苔縄で挙兵 |
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元弘3年(1333) | 5月 |
六波羅探題・鎌倉陥落→鎌倉幕府滅亡 |
6月 |
後醍醐天皇による建武の新政が始まる |
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建武3年(1335) | 2月 |
後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏が九州へ西走 |
3月 〜5月 |
白旗合戦 :赤松円心の籠もる「赤松城」(後の白旗城)に対し、後醍醐方の新田義貞が包囲するも、攻略できずに兵庫に撤退する |
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8月 |
京都を制圧した足利尊氏が光明天皇擁立(北朝) |
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建武4年(1336) | 7月 |
赤松円心が苔縄に雪村友梅を開山として法雲寺建立 |
暦応初年(1338) |
赤松円心が大卜玄素を開山として円応寺建立 |
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観応元年(1350) | 正月 |
赤松円心が病没→長子範資が後継 |
10月 |
足利直義が京都出奔、兄尊氏と対立→観応の擾乱 |
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観応2年(1351) | 2月 |
播磨光明寺合戦で尊氏が不利、赤松則祐は白旗城へ撤退 |
4月 |
赤松範資が病没 |
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11月 |
赤松則祐が尊氏と南朝の講和を仲介し上洛 |
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文和元年(1352) | 11月 |
則祐が「城山城」整備(文献上の初見) |
文和4年(1355) | 春 |
赤松則祐が赤松に宝林寺建立開始 |
3月 |
摂津神南合戦で、赤松則祐率いる播磨武士が足利義詮の勝利に貢献(則祐が赤松氏家督の地位を確立) |
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康安元年(1361) | 12月 |
南朝が京都を制圧し、足利春王丸(後の義満)が播磨に避難 |
貞治3年(1364) | 8月 |
赤松氏と断続的に戦闘を続けてきた山名氏が幕府に帰順 |
貞治4年(1365) | 11月 |
「赤松守護屋形」の文献上の初見 |
応安4年(1371) | 11月 |
赤松則祐が京都で病没、後継は嫡子義則 |
嘉慶2年(1388) | 11月 |
赤松義則が帰国して宝林寺供養 |
明徳2年(1391) | 12月 |
山名氏清が幕府に討伐され(明徳の乱)、赤松義則が美作守護職獲得→白旗が赤松に降下したとされ、白旗城整備 |
応永元年(1394) |
坂本が政治主体として確認 |
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応永5年(1401) | ||
応永13年(1406) | 4月 |
赤松義則が義満遊覧に備えて播磨に下国したため「御屋形整備」 |
応永29年(1422) | 5月 |
西播磨守護代所が石見から広瀬に移動 |
応永34年(1355) | 9月 〜11月 |
「赤松満祐下国事件」 :赤松義則が病没→足利義持が後継満祐の所領を持貞(貞範の孫)に与えたため、義則嫡男の満祐が播磨に下向し、白旗城・城山城に兵粮米備蓄・城郭整備も、持貞が失脚し満祐赦免 |
正長元年(1429) | 8月 |
播磨土一揆 |
嘉吉元年(1441) | 6月 |
京都で将軍足利義教を赤松教康が殺害、父赤松満祐らとともに播磨に出奔 |
9月 |
赤松満祐が城山城で滅亡 |
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閏9月 |
山名持豊が播磨守護を獲得 |