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赤松氏の歴史

法雲寺

 建武4年(1337)赤松円心が雪村友梅を開山として創建。雪村は元への留学経験をもつ禅僧で、元弘2年(1332)六波羅探題北方常葉範貞の被官である小串範秀が創建した京都嵯峨の西禅寺の開山に迎えられている。
 赤松氏の故地である佐用荘は六波羅探題北方のもとで小串範行が管理しており、円心(範村)と小串氏は当時から関係があった。
 範秀は正慶3年(1333)に出家して幕府滅亡から逃れ、法雲寺創建に際して円心は範秀と相談しており、雪村を紹介したのも範秀だろう。
 法雲寺の立地する苔縄は円心が最初に挙兵した地であり、創建にあたって周辺の高田・竹万荘が寄進されている。
 足利尊氏・直義が元弘以来の戦没者を供養するため国ごとに設けられた利生塔も法雲寺に建立されており、この間の円心が関わった合戦の慰霊という意味も込められていた。
 暦応2年(1339)には光明天皇の勅額を得て諸山に列せられ、堂供養は円心以下が参列する大規模なものだった。
 最終的には室町幕府のもとで十刹に列せられ、開山の雪村友梅が属する一山派だけでなく他派にも開かれた十方住持の寺院として、多数の高僧が住持に就任し、京都との間で独自のネットワークを結び、戦国期には荘園支配の仲介も果たしていた。
 また則祐系統の播磨守護家ではなく、円心長子の範資を祖とする七条流が住持を推挙していた事例が確認される。

宝林寺

 室町期の記録によると、もともと赤松則祐が貞和年中(1345 ~ 1350)に備前国新田荘中山に雪村友梅を開山として建立し、文和4年(1355)春に現在の赤松の地に火災を契機に移設したとされる。
 文和4年3月の摂津神南合戦で、則祐は播磨武士を率いて足利義詮の南朝方への勝利に貢献した。赤松における宝林寺の建立は播磨守護としての則祐の地位を象徴するものである。
 赤穂郡矢野荘には宝林寺造営役が賦課され、貞治6年(1367)に発した置文で、則祐は宝林寺を住持は雪村友梅門徒から選任し、それを護持するのが当家嫡流であるとし、その結びつきを強調している。
 円心と雪村友梅との関係を則祐自身が継承したとするものだが、円心が建立した法雲寺住持は七条流が推挙していたことに対して、則祐を嫡流と位置づけるためには宝林寺の存在が必要だったことを示している。
 また十境の一つとして、仏道とは無関係な白旗城が挙げられており、両者が一体的に捉えられていたと考えられる。
 康暦2年(1380)には法雲寺を差し置いて准十刹に列せられ(のち十刹)、嘉慶2年(1388)年には在京していた赤松義則が播磨に下国して塔供養が行われている。
 住持としても多数の高僧が招かれ、法雲寺・赤松五社宮とともに赤松地区を荘厳化していた。
 現在、宝林寺には赤松円心・則祐・雪村友梅・覚安尼(円心もしくは則祐の娘とされる)とされる坐像が所蔵され、いずれも後補があるが南北朝期の作と評価されている。
 赤松則祐像は延徳4年(1492)に相国寺雲沢軒で赤松義則肖像とともに発見され、宝林寺に送られたものと考えられている。
 明応5年(1496)に亡くなった赤松政則の周忌法要は宝林寺で行われており、赤松氏の由緒にとって不可欠なものと位置づけられていた。

宝林寺遺跡遠景 ※
宝林寺遺跡出土遺物 ※

赤松五社宮

 赤松則祐が子孫擁護のために、熊野・八幡・住吉・神功皇后・天神を勧請したもの。造営に関する赤穂郡矢野荘への賦課は則祐が亡くなった翌年の応安5 年(1372)から確認され、則祐の遺言で建立されたもので、守護屋形を鎮護する役割を果たすことが期待されていたと思われる。永享7 年(1435)7 月に僧鎮増が神前で談義をおこなっており、別当房地蔵院があったことも知られる。
 円心段階で白旗八幡宮が建立され(廃絶)、一切経も奉納されていたが、七条流に継承されていたため、それに対抗する意味があったものだろう。

栖雲寺跡

 赤松貞範が建立した寺院で、永和4年(1378)に住持淂珉が制作させたという梵鐘が、戦前に岡山県で発見されている(現東京国立博物館蔵)。
 何らかの事情で移動したものと思われるが、室町期の禅宗史料でも名前は確認できる。
 白旗山西麓に「せうじ」という地名が残り、上郡町教育委員会が実施した範囲確認調査で、礎石・基壇石組み・三つ巴紋を施した瓦などが出土した。

栖雲寺跡塔基壇全景(南西から)※
栖雲寺跡出土遺物 ※

円応寺

 鎌倉後期から播磨に進出していた聖一派の大朴玄素を開山として、暦応2年(1339)赤松円心が創建したもので、室町幕府の官寺制度のもとで十刹につぐ諸山に位置づけられた。
 住持の推挙は春日部流がおこなっており、外護は円心から貞範に受け継がれたらしい。
 一時退転した後に近世に再興され堂が現存するとともに、大伽藍をしのばせる礎石、佐用範家の墓と伝承される南北朝期の宝筺印塔が残る。

城禅寺

 雪村友梅法嗣で渡元経験を有する霊岳宗古を開山に迎えて、城山城の鬼門鎮護のため赤松則祐が創建したもの。
 応安2年(1369)には霊岳が天神の感得をうけ天満天神社も創建された(現宮内天満神社)。
 寺院は廃絶したが近世に創建された梅岳寺に城禅寺から移されたという仏像と、霊岳の開山塔とされる室町初期の無縫塔が現存している。

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