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赤松氏の歴史

守護拠点

江戸時代に描かれた白旗城(「播州并龍野藩領聞書」(部分) 当館蔵)

白旗城

上郡町赤松・細野

 白旗城は播磨の守護赤松氏の本城として白旗山(標高約440m)に築かれた中世山城である。当城と城山城(たつの市)は東寺領である「矢野荘文書」に多くの築城記事が残される全国的にも貴重な城郭である。この城は建武3年(1336)3月、赤松円心(則村)が籠城して足利尊氏追討のために西下した新田義貞を足止めし反撃に転じる契機をつくったことで知られる。ただし、近年の研究では当初この城は赤松城と呼ばれていた。後に石清水八幡宮から赤松に源氏の白旗が飛来するという奇瑞譚の出現によって白旗の名が使われたと考えられている。これは尊氏の勝利に貢献したことを象徴的に示した命名と思われる。
 こうして由緒と共に赤松の地の詰城として位置づけられた白旗城は、その後も赤松氏によって断続的に維持・整備が行なわれた。特に軍事的な緊張状態となった明徳の乱(1392)や応永の乱(1399)の前後には城山城と共に臨戦態勢のための準備が進められている。応永の乱に際して南の上郡の宿にある守護の「山里倉」から兵粮が運ばれているが、そのことは白旗城が簡易な粗塞ではなく籠城戦への備えも持つ恒常的な要害であったことを伺わせてくれる。
 一方、赤松氏の本城という由緒は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱によって赤松氏が滅びた後も維持される。それは享徳4年(1455)赤松則尚が山名氏に対峙するため白旗城を整備したことや、永正17年(1520)3月守護赤松義村が浦上則宗方に属した美作中村氏攻めのために赤松に入った(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)ことなどから確認できる。
 城の規模は東西約350m、南北約850mにおよび、大小多数の郭群で構成される。城域は山頂の主郭を中心に、3方に伸びる尾根に広がる。一方、この城の特徴は尾根の曲輪群の他に谷斜面に曲輪群をもつ点にある。尾根上にある本丸と二ノ丸は平坦地としての造成が丁寧であるが残りの曲輪は簡易な加工もしくは自然地形を残すものが多い。このため広域に広がる大規模な城であり、本丸・二ノ丸周辺は本格的な造成工事を行なうものの、その外縁は粗塞群を基本プランとする城郭構造の広がりをもつのが尾根上の曲輪群の特徴といえる。
 一方で二ノ丸の東斜面を下りた場所に侍屋敷と呼ばれる平坦地がある。この平坦地からさらに谷を下って平坦地が階段状に続く。これらの削平地には前面に石垣が構築され、内部に石列や立石が残される。さらに周辺からは瀬戸焼・備前焼・中国産磁器を初めとする陶磁器が表面採取されている。これらの遺物の内容からは上層階層の武士の居住が推定されるが、石垣・立石・石列などの施設の存在は、侍屋敷周辺の平坦地が恒常的な居住機能をもった曲輪であったことを示している。陶磁器の時期は14~16世紀初頭のものが含まれ、中でも南北朝時代~室町時代前半のものが量的に多い。これは白旗城が機能した期間に符合する。
 つまり白旗城の尾根上は粗塞群を基本とする築城思想で構築されるが、谷斜面の侍屋敷周辺は上級武士の恒常的な居住施設が構築される。このように白旗城は戦闘時の防御の場所と在城時の居所が分離する構造を持つ。そして、城山城の赤松屋敷の場所も谷地形におかれており、共通した構造を持つ。この時期の赤松氏の築城の特徴と言えるだろう。

写真1 赤松居館から白旗城を望む 山上雅弘撮影
写真2 白旗城主郭 山上雅弘撮影
写真3 侍屋敷(南から) 山上雅弘撮影
写真4 侍屋敷の立石(東から) 山上雅弘撮影
写真5 侍屋敷下の平坦地に築かれた石垣 山上雅弘撮影

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