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赤松氏の歴史

赤松居館跡

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第1遺構面 第1遺構面のスポット名 7トレンチ第1遺構面廃棄土坑SK54遺物出土状況(南東から) 7トレンチ第1遺構面SB53全景(北西から) 7トレンチ全景(東から) 11~13トレンチ第1遺構面全景(北西から)
第2遺構面 第2遺構面のスポット名 土器溜SU76出土遺物集合 12トレンチ第2遺構面土器溜SU76全景(南東から) 7トレンチ第2遺構面SU76全景(北東から) 9トレンチ調査区東壁整地層土層断面(北西から)

上郡町教育委員会『赤松居館跡1範囲確認調査報告書』図版4、5をもとに作成

解説

赤穂郡上郡町

 天明 7年( 1836 )前後と考えられる「赤松村絵図」(有年原自治会蔵)に「円心屋敷」と記されたカマボコ状の空間があり、小字名も「御屋敷」となる。昭和 56年( 1981 )に一部で確認調査が行われ、中世の遺物が出土している。
 そういった事情から平成 27年(2015)4月に発足したひょうご歴史研究室赤松氏と山城研究班では、居館跡の確認調査に協力するとともに、文献史料の収集・分析をすすめることが決定された。
 確認調査は上郡町教育委員会により平成 28~30年(2016~2018)にかけて実施され、3 層の遺構面が見つかり、1045 点にのぼる土師器皿などが出土した。このうち最下層の第3遺構面が 14世紀中ごろ以前、大規模な土器溜りが出土した第2遺構面が 14 世紀中ごろから後半、広範囲な整地が行われ礎石柱列・廃棄土坑が出土した第1遺構面が 14 世紀後半から末と評価されている。

赤松村絵図 有年原自治会所有

 文献史料では貞治 4年(1365)から赤松則祐が「赤松守護屋形」の整備を行っていたことが確認され、貞治 6年ごろまではそこを拠点としていたらしい。その後、守護は在京が基本となるが、嘉慶 2年(1388)には赤松義則が宝林寺供養と将軍義満遊覧を迎えるために帰国し、応永 13年(1406)にも同様に義満遊覧を迎えるため帰国しており、「屋形」の整備が行われたことが確認される。全面調査ではなく建物の復原はできなかったが、文献に登場する守護屋形と大きく齟齬することはない。14 世紀の守護屋形の出土事例は類例がなく重要な成果となった。

①橙色系土師器皿
(ロクロ成形・B類-1) ※
②橙色系土師器皿
(非ロクロ成形・E2類) ※
③白色系土師器皿
(ロクロ成形・G類-2) ※
④白色系土師器皿
(非ロクロ成形・I1類-1) ※

 赤松居館跡の発掘調査では、大量の土師皿が出土しており、全出土遺物の9割以上を占めた。土師皿は、写真のように色調によって橙色系と白色系の2種類に大別される。この2種類の土師皿は、さらに製作技法によってロクロ成形のものと、非ロクロ成形のものに分けることができる。その他の製作技法などによって、実際にはもっと細分化することができるが(B類-1、E2類など)、煩雑となるためここでは省略する。もっと知りたい方はぜひ『赤松居館跡1 範囲確認調査報告書』(上郡町教育委員会、2021)を手に取っていただきたい。さしあたり、①橙色系ロクロ成形、②橙色系非ロクロ成形、③白色系ロクロ成形、④白色系非ロクロ成形、の4種類に大まかに分類できることをご紹介するに留めておきたい。

ここまでが本文です。