赤松氏の歴史
守護拠点
城山城
たつの市新宮町
城山城は守護赤松氏が白旗城と共に拠点とした中世山城で、嘉吉元年(1441)に室町幕府軍に攻められた赤松満祐が最後を遂げた場所として知られている。この城は1980年代にたつの市教育委員会の義則敏彦氏が同じ場所に古代山城を発見したことでも近年有名になっている。
義則氏発見以前の城山城は「粗塞群」、つまり簡易な防禦施設が散在する構造をもつものとされていた。しかし、門築石(唐居敷)や石塁の発見が端緒となって、城の外周を土塁線が囲む古代山城の構造が明らかになってみると、その姿は中世山城が古代山城の防禦ラインを転用する大規模なものであることが明らかになった。
山城は標高448mの亀山など4つの峰とその周囲に広がっており、規模は南北550m、東西250mにおよぶ。赤松屋敷と呼ばれる周囲には居住用のための平坦地が集中するが、谷地形に立地する点は白旗城に共通する構造で、戦国時代の山城とは異なる特徴を持つ。
南北朝期の播磨の地誌「峰相記」によれば、天徳年中(957~961)に揖保郡の「勇健ノ武士」が城郭を構えて西国から運ばれてきた年貢を奪い取ったことを城山の由来とする。この記述からは地域社会が、すでに古代山城の記憶を忘れられつつあったことを教えてくれる。しかし、一方で城を「き」と読む点には古代山城の痕跡を残す。また、「壮健ノ武士」が城郭を構えるという行為自体からもここが軍事拠点にふさわしいとする記憶が播磨の武士社会の一部に共有された事実を読み取ることができる。
そして、赤松氏は文和元年(1352)11月に矢野荘に城山城の造営を命じた。この頃の播磨は山陰地方の山名氏との間に軍事的緊張が走っており、播磨西部の要衝に拠点の構築が求められた。つまり、揖保川・美作道を眼下に臨むという交通の要衝にあった選地と防禦の要害性という古代山城の機能が、おぼろげな軍事拠点としての伝承によって再び呼び起こされ、城山城は赤松氏の拠点城郭として再生するのである。
守護の拠点となった城山城はその後も継続して維持されたとみられ、矢野莊には倉や麓の越部守護屋形の造営役も賦課されるなど断続的に整備が行なわれている。そして、軍事的な緊張が高まると整備と共に兵粮米の持ち運びも行なわれたようで、倉の建築や兵糧の搬入からは大がかりな籠城戦を想定した機能も付与されていたことを推測させる。
こうして維持された城山城であるが嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して南北朝時代以来の山岳ゲリラ戦はあまり発揮されていない。つまり9月2日に坂本城から移り10日ほどで満祐、教康父子はあっけなく自刃したのである。その姿は軍事に疎いイメージであるが、早々に多くの播磨武士が離散したのも無理からぬ事だったのかもしれない。これまで城山城は簡易な粗塞群という評価を受けてきたが、こういった戦い方もその誤解を産む一因となったのかもしれない。
当時の日本における一大事件の現場という歴史事実が先行して語られる城山城だが、その城郭構造を再評価してみると、城郭史を語る上で重要な役割を持つことがわかりつつある。