本文へスキップします。

ここから本文です。

赤松氏の歴史

前期赤松氏系図

  1. 赤松円心 (1277~1350年)

     貞和6年(1350)に死去した際の記録(「常楽記」)に74 才とあり、それに従うと建治3年(1277)生誕ということになる。前半生については全く記録が残されていないが、鎌倉幕府が管理する九条家領佐用荘赤松村を名字の地とし、播磨守護を兼任する六波羅探題の常葉範貞・播磨守護代の小串範行の下で活動し、系図類で則村とされる実名も(同時代史料は全て出家名の円心)、本来は範村だったと考えられている。
     そうした円心が苔縄城から倒幕の挙兵に踏み切ったのは、比叡山にあった息則祐が天台座主で後醍醐天皇皇子の護良親王側近だったためで、河内の楠木正成とともに畿内における幕府秩序を大きく揺るがすことになる。その功績により建武新政では播磨守護職を得るが、それを播磨国司の新田義貞に奪われ、佐用荘を確保するにとどまったため、播磨に帰国したとされる。
     そのため建武2年(1335)足利尊氏が新政から離脱するとそちらに肩入れし、翌年正月に東国から京を攻めた尊氏が敗れ西走すると、新田義貞軍の追撃を赤松城(後に白旗城と呼称)で支え、その後の尊氏の反転攻勢が実現する原動力となった。尊氏から播磨守護職を得た円心は、建武4年に鎌倉末期に小串範秀が後援していた禅僧雪村友梅を開山として、苔縄に法雲寺を建立し、暦応2年(1338)には自らも下国して大規模な堂供養が営まれた。
     貞和5年(1349)足利直義と尊氏執事の高師直・師泰兄弟の確執が表面化すると、円心は師直の指揮に従っているが、翌年正月11日に京で亡くなったものと思われる。諡号は法雲寺殿、道号は月潭。

    赤松円心像・当館蔵
  2. 赤松範資 (?~1351年)

     円心の長子としてその挙兵に付き従い、建武元年(1334)には倒幕の恩賞として摂津国輪田荘地頭職を獲得し、二郎左衛門尉とみえる。円心帰郷後も京にとどまり、足利方の細川定禅のもとで活動し、建武4年には摂津守護職を得て美作権守と呼称された。
     その後も在京して幕府の軍事行動に携わり、円心没後は播磨守護職も継承し、遺領のうち佐用荘・五箇荘(いずれも鎌倉期以来の播磨守護領)の中核部分と白旗鎮守八幡・春日神主職などを獲得している。足利尊氏・直義兄弟が対立する観応の擾乱では尊氏息の足利義詮に従っていたが、その最中の観応2年(1351)4月に病没する。諡号は霊光院殿、法名は模叟世範。なお『太平記』では一貫して信濃守と表記されるが、同時代史料では確認できない。
     庶子は播磨守護を獲得した範資弟の則祐にも保護されたようで、広瀬・本郷・在田・永良・広岡・葉山を名乗り存続する。このうち広瀬が幕府奉公衆、葉山が幕府外様衆となるなど、室町期にも在京活動を続け、途中で断絶したとおぼしき広瀬を除く家は、戦国期の赤松一門のなかで御一家衆として位置づけられている。

  3. 赤松光範 (1320~1381年)

     範資の嫡子で、康永4年(1345)の天龍寺供養には父範資とともに供奉し、父がかつて名乗った二郎左衛門尉としてみえ、後継としての地位を明確にした。観応2年(1351)に父範資が病没すると直後には、足利直義とともに京都を出奔したようだが、ほどなく離反したらしく、観応3年8月からは足利義詮の命令を摂津守護として受けている、もっとも播磨守護は叔父の則祐が獲得したらしく、摂津でも則祐宛の文書が出現する。激動する軍事情勢のなかで、光範単独での執行は困難で則祐が後援とみなされたものと思われる。
     その後は延文5年(1360)まで光範の摂津守護としての活動徴証がみえるが、延文5年(1360)に佐々木導誉の差し金で罷免され導誉の孫の秀詮に差し替えられたらしい。背景に幕府内部の権力闘争があるらしく、貞治元年(1362)10月には再び則祐が守護に任じられ、翌年から光範による活動徴証もみられるようになる。貞治5年に幕府内の対立によって守護不在の状況があったようだが、再び光範の活動が見え、貞治6年には義詮の中殿御会に赤松一門でただ一人供奉するなど存在感を示している。
     応安4年(1371)11月に則祐が亡くなると、摂津有馬郡は後継義則が優先権を得たらしく、それ以外での光範の摂津守護としての徴証も応安6年を最後に途絶えてしまう。しかしその後も軍事行動の主体としてみえ、則祐の七条宿所は光範が継承したらしく、七条と呼ばれ、幼少の義則による統制が困難だったためか、貞範の後継である顕則とともに播磨での活動も確認される。「赤松盛衰記」によると永徳元年(1381)に62 才で亡くなったとあり、大きな矛盾はないため、ひとまずこれに従っておく。後継の満村は明確な活動徴証は一例のみだが、続く満弘は円心建立の法雲寺住持を推挙し、輪田荘・福原荘・兵庫荘という都市兵庫に関する権益を保持しており、範資以来のものだったと思われる。その後も七条流は幕府外様衆で、赤松一門の御一家衆でも筆頭の家格におかれ、延徳元年(1489)には政資子の道祖松丸が播磨守護赤松政則の養子に迎えられ、明応5年(1496)の政則の急死によって当主に擁立されている。

  4. 赤松貞範 (?~1376年~)

     後世の系図では応安7年(1374)に69 才で没したとあるが、永和2年(1376)に活動徴証があり、詳細は不明。円心の挙兵に付き従い、建武2年(1335)12月には足利尊氏が建武新政に反旗を翻すと、関東に下って箱根合戦を戦い、建武3年9月には丹波国春日部荘の地頭職を与えられた。官途は雅楽助。
     その後は円心のもと播磨での合戦でも活動し、観応の擾乱後は筑前守を官途として播磨にあって山陰の山名軍と対峙し、延文元年(1356)からは美作守護としての徴証が見える。延文四年からは筑前入道世貞とみえるが、貞治三年(1364)に幕府に帰順した山名義理に守護を差し替えられる。もっとも円心から譲与された所領に加え、播磨・美作・摂津に所領を有し、幕府の軍事行動でも則祐流とは独立して活動していた。諡号は栖雲寺殿で、栖雲寺は赤松に立地していた。子孫は春日部流と称され、独自の地位を占め続けた。

  5. 赤松則祐 (1311~1371年)

     円心三男で、『太平記』に大塔宮護良親王の側近として登場し、延暦寺僧だったと考えられ、権律師と呼称される。播磨守護円心のもとでは、佐用荘中津川を拠点として在国していたらしい。
     観応2年(1351)2月に則祐は播磨武士を率いて足利尊氏に従い、足利直義方の籠もる光明寺を攻撃していたが情勢不利と判断して播磨に戻り、8月からは南朝に降り赤松宮を擁立するとともに、尊氏と南朝が和平を結んだ11月の正平一統を仲介する。
     翌年それが破綻すると、則祐は尊氏方として播磨を基盤に活動し、白旗城・城山城の整備をすすめていく。文和4年(1355)春には、摂津神南合戦で播磨武士を率いて足利義詮の勝利に貢献し、それを契機にもともと備前にあった宝林寺を赤松地区に建立し、播磨守護としての地位を確立する。佐々木道誉の娘との間にもうけた長子義則の誕生が延文3年(1358)まで降るのは、庶子として自らを律していた則祐が、家督を子孫に継承させようとしたためで、系図で円心の実名が則村とされるのも、則祐がもともと家督であったかに見せるためだったと考えられている。
     その後も則祐は赤松を拠点に南朝方だった美作・但馬の山名時氏と対峙し、妻子も在国していたようだが、貞治2年(1363)時氏が幕府に帰順すると情勢は安定し、貞治五年には「守護方留守奉行人」という表記がみえる。貞治四年には備前守護としてもみえる則祐も、在京活動が中心になり、応安4年(1371)11月29日に京都で亡くなっている。没年齢については同時代の記録に60 才と61 才とするものがあるが、後者に従っておく。諡号は宝林寺殿、道号は自天、妙善とも。

  6. 赤松義則 (1358~1427年)

     則祐長子として延文3年(1358)に誕生し、応安4年(1371)10月の上洛まで播磨で成長し、11月の則祐の死で播磨・備前守護・摂津有馬郡を継承し、最初の官途は蔵人左近将監。康暦元年(1379)7月からは兵部少輔、嘉慶元年(1387)年12月からは上総介、翌年4月には幕府の侍所頭人としても断続的に活動(当該期の頭人は短期間で土岐・京極・一色氏と交代)。
     明徳2年(1391)12月の山名氏討伐の京都内野合戦で弟将則を失うも、翌年正月に美作守護も獲得する。これで三国の守護を兼帯する一方で、摂津有馬郡の管理は弟義祐に譲られたらしい。応永4年(1397)11月からは上総入道・性松とみえる。応永2年6月の義満出家に伴い多数の大名が追随したが、それからはやや遅れ詳細は不明。
     応永21年からは大膳大夫入道と呼称され、諸事を嫡子満祐に委ね事実上隠居状態となり、応永34年9月に死没。諡号は龍徳寺殿で、京都建仁寺に設けられた塔頭の名称で墓所の地。もっぱら在京して義満・義持に仕え、播磨下向は嘉慶2年の宝林寺供養参列と義満瀬戸内遊覧の応接、応永13年の義満播磨遊覧への応接が確認できるのみとなる。

  7. 赤松持貞 (~ 1427年)

     春日部流は、貞範のあと顕則、頼則と続き、応永16年(1409)には満則が家督を継承するが、顕則の庶子、満則からみると叔父にあたる。持貞(官途は越後守)が室町殿義持近習として史料に登場するのは応永23年で、27年からは寺社への祈祷関係について義持の意思を奉じる文書を発給するようになり、義持と密接な主従関係をもっていたとされる。
     応永34年10月に赤松義則が没すると嫡子の満祐を廃して、播磨守護に持貞、備前守護に七条流の満弘、美作守護に満則が宛てられるという噂が流れ、満祐は京を出奔して播磨に下国するという事件が起こる。しかし義持のもとに持貞が密通事件を起こしているという訴えがあり、無実を訴えた持貞は即座に切腹させられることになった。満祐を支持する幕府重臣たちが図ったもので、持貞は義持から切り捨てられたと評価されている。

  8. 赤松満政 (~1391~1445年)

     赤松則祐の庶子で明徳の乱(1391)で戦死した将則を父とする。応永19年(1412)には民部少輔、応永29年には刑部少輔としてみえ、正長2年(1429)3月9日付の文書で、「上総介源満政」と署名して田地を播磨国広峯社に寄進している。この日は将軍義教の元服当日で、赤松義則が一時帯びた上総介も義教が与えたと考えられている。永享3年(1431)からは播磨守を名乗り、義教の近習として文芸活動に参画するとともに、命令・意思の伝達と上申・披露の中継ぎに携わっている。その内容も義持近習の持貞が祈祷関係に限定されていたのに対し、武家との取次など広範囲にわたっており、自身も播磨に所領を有し、被官を抱えていた。
     嘉吉元年(1441)6月に赤松教康が義教を謀殺する嘉吉の乱が勃発すると、討伐軍に加わり、明石・加東・美嚢郡の守護に補される。しかし播磨守護に任じられた山名持豊の要求で、文安元年(1444)正月に三郡守護を没収され、満政は播磨に下国して抵抗するが討伐され、翌年4月に首が京都に届けられている。
     なお七条流から家督に擁立された赤松義村をめぐって、明応7年(1498)に「東西取合合戦」と呼ばれる宿老たちの対立が起こったが、大河内を擁立する勢力があったことが知られ、単に命脈を保っただけにとどまらない地位を一門内で占めていたことをうかがわせる。

ここまでが本文です。