当館の収蔵資料の中に片面のみの円盤型レコードがある。ラベルに演奏者として記されるのは、北村季晴、北村はつ子、前田久八で、演目は「兎と亀」「鳩ぽっぽ」「桃太郎」の3曲である。制作会社は、レーベルに「COLUMBIA PHONOGRAPH CO.」とある通り、米国のコロムビア社で、特許の表記などから1906年(明治39年)以降の製造と思われる。

「レコード(兎と亀 鳩ぽっぽ 桃太郎)」 1906年(明治39年)頃 当館蔵(入江コレクション)

 1877年に、トーマス・エジソンが、音の、特に話し言葉の記録・再生・複製を主目的としたシリンダー式蓄音機「フォノグラフ」を発明した。その「話す機械」は、翌年にはエジソン・スピーキング・フォノグラフ社が設立されて商品化された。コロムビア社は、フォノグラフの販売会社であったコロムビア・フォノグラフ社を出発点としている(2011年にソニーミュージックに吸収された)。

 1887年にはエミール・ベルリナーによって、音楽の録音・再生を主な用途とした円盤型レコードが開発され、1890年頃からコロムビア社などの蓄音機製造・販売会社は、音楽レコードを販売するようになっていった。メジャーレコード会社のはじまりである。コロムビア社は、最初はシリンダー型レコードを主軸としていたが、1902年より円盤型レコードも扱いはじめた。

 さて、日本における初めての蓄音機は、1879年(明治12年)に東京大学で機械工学を教えていたイギリス人ジェームズ・アルフレッド・ユーイングが組み立てたシリンダー式蓄音機で、東京の木挽町にある東京商法会議所でお披露目された。

 1889年(明治22年)にようやく日本にも蓄音機が輸入されはじめ、明治20年代には日本各地で蓄音機を聴くもよおしが開催されていたようである。

 初めて円盤型レコード(以下、レコードとする)が日本に輸入されたのは、1903年(明治 36年)のことで、 東京の銀座に店を構えて貴金属や時計類を商っていた天賞堂による。輸入レコードといっても、欧米で販売されていた西洋音楽のレコードをそのまま売り出したわけではない。

 当時の日本では、西洋音楽の素養がある人は非常に限られ、たいていの人にとっては、西洋音楽はよくわからないものだったと思われる。

 ここで、『音楽界』第1巻第6号(1908年6月)の「大阪の音楽会所感」という記事をみてみよう。ちなみに当時の音楽会では、洋楽と邦楽を織り交ぜたプログラムであることが一般的であった。

……何が最も聴衆の歓迎を受けたかと云へば、前述の義太夫と三曲と舞にあつたらしかつた……中略……和楽の演奏に耳を澄ませる聴衆が洋楽の時には毫も静粛でなく其一二等席聴衆の三々五々私語する所を聞けば「彼は何を唱ひ何を弾けるにや、解らぬから詰らぬ早くやめて呉れヽばいヽに」と高言して憚らず……

 このように、音楽会に出向く人たちでも西洋音楽にほとんど理解がなく、生まれた時から親しんでいた邦楽の方を喜んだようだ。西洋音楽のレコードの需要は当時の日本ではあまりなかったであろう。1912年(明治45年)3月8日の東京毎日新聞の記事にはレコードの売れ筋が記されており、それによると、長唄が1番で、義太夫、琵琶がそれに続くらしい。唱歌や洋楽、謡曲や詩吟は特にどれが売れるというわけではなかったようだ。

 自国の音楽が好まれる傾向は日本だけでなかったようで、欧米のレコード会社は、現地でその地域の音楽を録音し、本国にその音源を持ち帰ってレコードを制作していた。そして、それをその地域に輸出して販売していたのである。

 例えば、欧米のレコード会社による日本での初めての録音は、英国グラモフォン社(1931年にEMIに改称、現ユニバーサルミュージック)のフレッド・ガイスバーグによるものであるが、彼は東京だけを訪れたのではなく、1902年(明治 35年) 9 月から翌年 8 月の間にインドのカルカッタ、シンガポール、香港、上海、東京、バンコク、ラングーン(ミャンマーの首都ヤンゴン)、インドのデリー、ボンベイの順にめぐり、合計 1700 枚の録音を行ったらしい。

 このようなわけで、冒頭で紹介したレコードは、演目は日本の音楽だが、海外のレコード会社が制作した輸入レコードなのである。

 ガイスバーグの日本での日程は、彼の自伝や日記などがあり詳しく知られている。彼が横浜港に着いたのは、1903年(明治36年)1月16日で、それから3月3日に日本を離れるまでの間、彼は273演目もの日本の芸能を録音した。その内容は、雅楽、能、狂言、常磐津、義太夫、娘義太夫、長唄、清元、三曲、吹奏楽(西洋楽器合奏)、落語、浪曲、法界節、声色、詩吟、掛合ばなし・あほだら経などであった。この音源のレコードが輸入されたのが1年後の1904年(明治37年)1月で、東京銀座の三光堂が販売した。

 先に触れた、天賞堂による日本初の輸入レコードはアメリカのコロムビア社が制作したもので、1903年のグラモフォン社の来日の後に録音されたものだが、レコードは同年末頃に、つまりグラモフォン社より先に販売されたようである。

 今回紹介するレコードは、同じくコロムビア社の制作であるのだが、これは1905年(明治38年)11月もしくは1906年(明治39年)2月に録音したものの1つだろうと思われる。この録音は東京だけでなく大阪でも行われ、東京だけでも、邦楽900枚も録音したという。

 最後に、本レコードの演奏者である北村季晴・初子夫妻、前田久八について覚えがある人はいるだろうか。季晴の名は、長野県民なら県歌「信濃の国」の作曲家として耳にしたことがあるかもしれない。それでは、兵庫県民で季晴を知っている人はいるだろうか。実は、1914年(大正3年)の宝塚少女歌劇団の第1回公演のメインの演目であるお伽歌劇「ドンブラコ」は季晴の作品であるので、季晴は兵庫県に関係ないこともないのである。

「北村成於作オトギ歌劇ドンブラコ(桃太郎)楽譜」 1912年(明治45年) 当館蔵(入江コレクション)

参考文献

大阪音楽大学音楽文化研究所編『「大阪音楽文化史資料」明治・大正編』 大阪音楽大学 1968
中村佐伝治『「信濃の國」物語』 信濃毎日新聞社 1978
倉田喜弘『日本レコード文化史』 東京書籍株式会社 1992
生明俊雄『20世紀日本レコード産業史:米英メジャー企業の日本市場への戦略的進攻を中心に』 東京芸術大学博士論文 2016