学芸員コラム
2020年5月20日
第120回モノクロ銀塩フィルムの現像作業~微粒子現像へのこだわり~
このタイトルでコラムを書こうという発端は、コロナウイルスによる自粛以前のこと、令和元年10月にタイ北部のチェンマイから南下してアユタヤなどの寺院を巡る旅行の帰国の際にタイ航空A330-300の機内で、前席に取り付けられたモニターでみた映画に惹かれ、その原作本を読んだことである。
松尾由美『九月の恋と出会うまで』(新潮社、平成19年(2007))という小説で、ヒロインは一眼レフカメラで撮影した35ミリサイズのモノクロフィルムを自分で現像するという趣味を持っている。なお、昨年に公開された映画の年代設定は平成31・令和元年(2019)で、デジタルカメラで撮影し、プリンターで写真プリントをするというように変更されていた。
この原作を読みながら、かつて自分も撮影した35ミリモノクロフィルムを現像する作業をしていたが、デジタルカメラの普及により、その作業をやめてから30余年も経過したことに気づいた。自分なりにこだわっていた現像方法、フィルム、現像薬品などの詳細を忘れかけており、まだ記憶の確かなうちに記しておきたいと思ったのである。
フィルム現像を始めたのは、昭和48年(1973)高校1年からで、一眼レフカメラ(アサヒペンタックスSP-F)を使い始め、写真部へ入っていた同級生の紹介で入部し、使用するフィルムやその現像作業の手ほどきを先輩から受けたことによる。使用フィルムは米国製のコダックプラスX〔ASA(ISO)125〕。ニクソンショック等で1ドル=360円の固定相場は変動制となり300円程度になっていたが、まだ当時は国産フィルムよりもかなり高価であった。行きつけの写真用品店が、プラスX長尺100フィート(30.5m)フィルムをカットして使用済のパトローネを再利用して詰めた36枚撮フィルムを1本200円で販売しており、国産フィルムとほぼ同じ値段で購入できた。但し、フィルムをパトローネの軸にテープ止めする作業は明るい場所で行われており、最後の1~2コマは感光していて写せなかった。現在のようにフルオートのデジタルカメラでSDカード一枚に数百カットから千カット以上も撮影可能な状況とは異なり、一カット毎にピントと露出を合わせ、画像がブレないよう息を止めてシャッターを切っていた。
大学時代は、写真用具の量販店で詰め替え器具を購入して、ダークバックの中で長尺フィルムをカットすることにより最後まで写せるようにした。長尺フィルムの価格が3,000円くらい(空パトローネ付)で、約18本取れ、かなり経済的であった。
さて、フィルム現像である。現像剤はコダック社の「D76」、フジフィルム社の「フジドール」、「ミクロファイン」などが一般的であったが、プラスXは、これらの薬品で現像すると、かなり硬質な仕上がりとなる。柔らかな画質を得るには「プロマイクロール」(英国メイ&ベイカー社)という現像剤が良いと先輩から聞いて使うことにした。当時「ミクロファイン」が600ml用で70円程と記憶しているが、「プロマイクロール」は600ml用で250円であった。高校1年のときに5箱買った。このころ石油ショックでインフレが激しく、買いだめしたのである。大学のときに購入したときは1箱360円になっていた。この現像剤はA剤〔小袋〕とB剤〔大袋〕の粉末二剤からなり、小袋を最初に溶かして、大袋を投入するのである。B剤を先に溶かすとA剤が溶けないためであるが、A剤をどんなに撹拌しても少し溶け残り、B剤を入れて撹拌すると全部溶けるという薬剤で、その原液は栄養ドリンク剤のような黄褐色であった。それをイメージした訳ではないが、原液を100mlのドリンク剤の空瓶に小分けして冷暗所に保管していた。
この現像液の原液は1度に2本現像して5~6回使用できるが、原液による現像時間は 最初5分で使用回数を重ねるたびに少しずつ現像時間を増やしていく必要があるため、原液を5倍に薄めて使う稀釈現像が推奨されていた。稀釈現像は原液の現像よりも時間がかかり、液は使い捨てとなるが、毎回同じ現像時間で行え、画像の粒子がより鮮明になると説明されていた。そして液温を通常の20℃ではなく24℃で行うと現像時間が短縮されるので、その現像時間の換算グラフが説明書にあり、20℃で16分程かかるのが24℃では12分程で現像できたように記憶している。
この現像剤は「増感性超微粒子」の効能があり、フィルム感度を2倍に設定〔プラスXではASA(ISO)250に設定〕しても良好な画質で現像できるとのことであるが、あえて本来のASA(ISO)125として、現像時間を少し短くした。原液100mlに400mlの水を加え、24℃に加温して現像タンクに注入し、最初1分間連続撹拌し、その後は毎分10秒ずつ撹拌した。現像タンクには、フィルムを巻き取るリールが2つ入るので2本ずつ現像していたが、やがてフィルムの感光材が塗られていない背面あわせにして2本のフィルムを1つのリールに巻き付けて、一度に4本現像するようにした。この作業はダークバックの中で手探りでおこなうため、うっかりすると感光材の面をもう1本の背面につけて、現像ムラを起こすことがあり、細心の注意が必要であった。プラスXがないときは、フジネオパンSS ASA(ISO)100で写真を撮ったが現像時間は24℃でも20分くらいかかった。「プロマイクロール」は、現像時に銀塩の粒子が細かく仕上がり、いわゆるヌケがよいという特徴を見せ、印画紙に焼付けたときに、かなり大きく引き伸ばしても画質は良好であった。
1980年あたりでプロマイクロールは入手出来なくなったが(生産停止らしい)、ほぼ同時にコダック社からT-MAX100というフィルムとその専用現像剤が発売になり、稀釈現像ができたので続けていたが、パトローネが再利用するための両端の金具(ピン)の止め方が変更となり、長尺フィルムからの詰め替えが出来なくなった。さらに諸般の事情から現像作業もやめることになり、以後写真店に現像を依頼するようになった。。
現像したフィルムは「ネガ」で、これを暗室のなかで引伸機を使い印画紙に焼付けて現像処理をして写真プリントができる。現像液に浸した印画紙から画像が浮かび上がる時がこの作業の最大の楽しみといえる。この作業は高校時代にフィルム現像と同時に覚えた。普通は大キャビネサイズ(13㎝×18㎝)で、文化祭の時は展示用の四切判(よつぎりばん、A4サイズ相当)や、半切判(はんせつばん、A3サイズ相当)まで引き伸ばした。
博物館勤務となってこの経験が役に立った。ブロニー版のネガを用いた引伸しや、引伸し画像を床面に投影することにより、全紙版(A2サイズ相当)の焼付けもおこなった。後には4×5版用の大型引伸機も使った。使用するネガはブロニー版フィルムを用いる6×7一眼レフカメラ、と6×9版カメラ、そしてシートフィルムを使う4×5版のカメラで撮影したものである。これらのフィルムの現像は写真店へ依頼した。
印画紙は、ネガの濃さ、硬さなどに対応するため、2号(画質軟らかめ)・3号(画質普通)・4号(画質硬め)の三種があり、1号(超軟用)、5号(超硬用)というのもあるが、通常では入手出来なかった。やがてフィルター交換によって画質が変わる「多階調印画紙」が登場したが、使い始めたときにデジタルカメラが登場して、暗室での引伸し作業を行うことがなくなった。
2000年頃になると、図録のカラー図版や、展示用のカラー写真パネルの作成は、モノクロ図版、モノクロ写真パネル作成と価格がほぼ同じになった。これはカラー写真の現像、焼付けが自動化されたことによるもので、まもなく手作業で行うモノクロ写真のほうがカラー写真より高価になるという逆転現象が起きた。
そして、デジタルカメラの登場で写真現像の必要がなくなった。撮影した画像が直ちに見られることで、より良好な画像が撮れ、データをパソコンに入れてプリンターに送れば、すぐプリントできる。大型プリンターがあれば大判のカラープリントが安価に、またこれまで撮影したモノクロネガはスキャナーで画像データにして、モノクロプリントもできる。これで写真パネル作成のコストも安価になり、印画紙への焼付け作業はなくなった。
デジタルカメラの高性能化、SDカードの容量アップで、銀塩フィルムとそれを現像するための薬品、多量の水、そして高価な銀を使わないということで、コスト、資源、環境への負担も大幅に改善している。反面、世界の銀塩フィルムメーカー、印画紙のメーカーは打撃を受け、あらたな業種への変更を余儀なくされている。
大判カメラによる銀塩写真の撮影のシャッタースピードやレンズの絞りは、露出計で測るが、写す資料によって絞り値を加減する必要がある。この調整は経験によるカンで行なうため、現像されて手元に届く数日後まで結果がわからない。デジタルカメラは、撮影直後モニターで確認でき、修整して再撮影もすぐできる。
アナログレコードがCDよりも音質や音域が広いとして近年再注目されるようになり、レコードが再生産されるようになった。手間とコストのかかる銀塩写真の復活はもう見られないと思っていたが、最近のカメラ雑誌をみると、銀塩フィルムの再ブームが始まっているという。「チェキ」という銀塩フィルムの技術を伝える写真は人気があり、その味わいを求める人たちが銀塩フィルムを使い始め、銀塩フィルムの現像、印画紙への焼付け、引伸し作業などを趣味として行う人が増えているとのことである。デジタルカメラの便利さを知ってしまった自分には、かつての現像、焼付作業をもう一度やってみようという気持ちは起きないが、この作業で使用した酢酸のすっぱい臭いは、いつまでも記憶に残っている。