学芸員コラム
2025年6月18日
第167回 震災を伝える人―北但大震災の記録と資料―
北但大震災から100年
2025年は、阪神・淡路大震災から30年にあたる年です。兵庫県立歴史博物館では、それを機に特別展「阪神・淡路大震災を伝える・知らせる」を開催し、私はその特別展の展示を企画しました。震災をきっかけに作成されたさまざまな資料を通じて、被災地や復興をめぐるさまざまな問題について考える大切な機会でした。
それと同時に今年は、北但大震災から100年を迎える年でもあります。この震災は1925年(大正14)5月23日、午前11時過ぎごろに発生しました。震源地は円山川河口沖合で、マグニチュード6.8、当時の最大震度である震度6を記録しています。420名の方々が亡くなり、豊岡や城崎などの市街地では、火災による被害が大きく、全焼戸数は1,700戸を超えました。(豊岡市ホームぺージ「北但大震災の概要」)
震災から100年ということで、最近の報道では、メモリアル行事の開催や、復興建築群への関心の高まり、城崎の復興計画に関わる新史料の発見などに関するものがいくつか見られました。こうした取り組みを見ると、100年前に起きた震災が、振り返るべき大事な出来事として地域のなかで現在も受け継がれていることがうかがえます。 そうだとすれば、そもそもなぜ北但大震災は、地域のなかで受け継がれる出来事となったのでしょうか。大きな災害だったとしても、それが長く受け継がれることは、必ずしも当たり前のことではありません。そこで、ここでは、北但大震災について伝えるひとつの資料を切り口に考えてみたいと思います。
北但大震災を記録する『乙丑震災誌』
北但大震災に関する資料のうち、いわゆる「震災誌」のようなかたちで刊行されたものがいくつかありますが、今回、特に取り上げたいのは、豊岡町編『乙丑(いっちゅう)震災誌』(豊岡町、1942年)です。これは、豊岡町が発行した上・中・下の3巻に分かれた公的な記録誌です。なお、現在は国立国会図書館デジタルコレクションにおいて全文閲覧することができます。
1929(昭和4)年に書かれたこの記録誌の「例言」によると、震災から2年後の1927(昭和2)年から、豊岡町は震災誌の編さんのため、震災体験者への聞き取りや、町役場や関係機関にある資料の収集を始めました。その編集方針は「概況」「災害」「応急措置」「救援救護」「義金及び弔祭」「復興」「雑記」の7編からなるものでした。
これだけ見ると、震災の全体像を捉えるために地震の発生から書き起こし、被災者への対応と復興事業について、おおむね時系列で、そして対応した機関ごとに叙述するという災害記録誌としてはオーソドックスな構成になっています。
しかし、『乙丑震災誌』は、その書き方が独特です。一般的に、この時期のこうした記録誌では、書くための素材となる文献や資料、聞き取り内容を執筆者が分析し、その内容をまとめ直して叙述することが多いように思いますが、『乙丑震災誌』では叙述のために参照した文献や資料の原文を繰り返し引用するところに特徴があります。
たとえば、地震発生後の火災について書いたところを見ると、当時、神戸測候所豊岡出張所に勤めていた技手の報告書から「私は当時事務室内中央に東面して執務中であったが…」と始まる文章を2ページにわたって引用したのに続き、当時の研究者による調査報告や、消防・警察の調書、個人の体験記、兵庫県が発行した『北但震災誌』の該当箇所など、参照した資料の原文を繰り返し引用していきます。そして単に引用するだけでなく、引用元に誤りがある場合には、その部分を指摘して実際の被害状況を補足するなど、当時手に入れることのできるさまざまな資料を用いて多角的に火災の被害について迫っています。
このように資料の原文を引用しつつ、その内容を検証しながら叙述を進めるスタイルは、それだけとって見れば、まさに私たち歴史研究者の叙述スタイルと大きく変わりません。 こうしたスタイルが採用されたことについて、もう一度この記録誌の「例言」に書かれた編集経緯を見てみると、特に「資料の原文を存録」することを重視していたようです。なぜならば、震災の真相を伝えるためには、当時の記録を網羅し、人びとの経験や想いを知らなければならない、という考え方がこの震災誌の基礎にあったからでした。
北但大震災の記録を集めた人
それでは、『乙丑震災誌』のもとになる資料を集め、文章を書いた人は誰だったのでしょうか。冒頭の「例言」によると、2人の人物が編集に携わっていたようです。1人はこの例言の執筆者ですが、「編者」とのみ記されているだけで名前ははっきりとわかりません。そしてもう1人は平井慶次という人物で、彼は多くの資料を集め、聞き取りを行い、その内容を筆記するなど、『乙丑震災誌』編集のキーパーソンでした。
平井慶次については、教育界で功績のある人物を紹介する三光舎編『人を人にする人』(三光社、1919年)という本のなかで、彼の経歴が詳しく取り上げられています。
これによると平井は、江戸時代末期の1863年(文久3)、のちの村岡藩の藩士の家に生まれました。1880年(明治13)、神戸師範学校を卒業したのち、気多郡(現・豊岡市)の小学校に赴任したのを出発点に、教員としてのキャリアをスタートしました。いくつかの小学校で教員として勤めた後、小学校長や養父・氷上両郡の郡視学となるなど、着実にステップアップしていきました。つまり、但馬や丹波を中心に学校教育の担い手としてキャリアを積んだ人物が『乙丑震災誌』を書いたということになります。なお、1922年(大正11)発行の『職員録追録』では、城崎郡豊岡尋常高等小学校を退職したことが記録されているので、北但大震災のときには学校教育の現場からはすでに退いていたものと思われます。
そして平井のキャリアのうち、『乙丑震災誌』とのかかわりで興味深いのは、『豊岡誌』(豊岡町、1942年)の編さんに関わっていることです。
『豊岡誌』は全3巻からなり、地理、人物、そして1917年(大正6)までの豊岡町の歴史をまとめた本です。この本の冒頭に掲載された「豊岡誌例言」によると、1917年に始まったこの編さん事業にあたって、当時豊岡小学校の校長であった平井は、関係史料の収集を担っていました。また、『豊岡誌』では、さまざまな古文書などの史料を参照しつつ、地元で伝わる伝承や寺社の縁起などについては、真偽が不確かなものであっても、その概要を掲載する方針を採ったとしています。ここでその詳細を紹介することはできませんが、関係する資料を網羅していくスタイルの『乙丑震災誌』と似たものを感じさせます。
なお、『豊岡誌』においても、平井は史料を収集した人物として名前が出てきますが、肝心の著者については「編者」とのみ記されるだけで、その氏名は明らかではありません。執筆自体は1918年(大正7)にいったん終了したようですが、その後の経過を含めて書き加えるなかで発行は遅れ、最終的に『豊岡誌』が発行されたのは『乙丑震災誌』と同じ1942年(昭和17)でした。平井が参考資料の収集を担い、それとは別にもう1人の編者が存在し、刊行のタイミングが同じと、編集体制の面でも『乙丑震災誌』と『豊岡誌』は似ており、この2つの本の成り立ちはとても興味深いものがあります。
いずれにせよ、『乙丑震災誌』発行のために北但大震災の記録や資料を集めた平井慶次という人物は、単に震災の記録それ自体に通じていただけではなく、『豊岡誌』編さんの役割から明らかなとおり、「資料を集める」という能力に長けた人物であったと考えられます。そしてそうした能力の蓄積の背景には、彼が教育現場に長く身を置いていたことも関係しているかもしれません。
北但大震災の記録誌『乙丑震災誌』とそれを編んだ平井慶次の事例は、震災という出来事についての資料の大切さはもちろんのこと、それを集め、記録する人の存在が不可欠であることを今の私たちに伝えているように思います。