当館の“歴史工房”の部屋には、当館所蔵の『熊野観心十界曼荼羅』があります。『熊野観心十界曼荼羅』は江戸時代の地獄絵を代表する作品の一つで、上部には人生を山坂にたとえた「老いの坂」、中央の「心」という文字から結ばれる十界(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)の世界、施餓鬼供養、そして様々な地獄の責め苦が描かれています。

熊野観心十界曼荼羅(兵庫県立歴史博物館蔵、以下同)

 和歌山県熊野には、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産となった、「熊野三山」(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野新宮速玉大社)があります。平安時代頃から盛んに熊野参詣が行われ、戦国時代~江戸時代にかけて熊野三山の運営資金を集めるために、“熊野比丘尼”と呼ばれる女性の宗教者が諸国を巡り歩きました。その宗教活動の際に絵解きとして用いられたのが『熊野観心十界曼荼羅』です。

 今回のテーマは「餓鬼」。「餓鬼」という言葉を聞いてどんなことをイメージするでしょうか。現在では良くない印象の子どもを指す「ガキ」という言葉が一般的に使われています。

 では実際「餓鬼」というのはなんでしょうか。仏教の世界では「六道」という6つの世界があると説かれています。最上階から天道・人道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道となっており、「六道輪廻」という言葉もあるように、人は死後この六道を廻るとされています。今回の主役である餓鬼は、常に飢えと渇きに苦しむ世界とされる餓鬼道に堕ちた亡者(死者)のことを指します。餓鬼は、一説によると目には見えないけれど人の住む世界に生息していると考えられています。今回はそんな実は身近にいるかもしれない餓鬼にスポットを当ててみたいと思います。

 餓鬼の容貌は「身体全体が痩せているが、腹だけが膨れている」というもので表わされます。お腹だけが膨れているのは、飢餓状態により水分やガスがお腹に溜まっているからです。では『熊野観心十界曼荼羅』にはどんな餓鬼がいるのでしょうか。

ここでは左から順に、“食物が火となる餓鬼”、“飲水が火となる餓鬼”、“果実が火となる餓鬼”の3体が描かれています。そのうち“食物が火となる餓鬼”と“飲水が火となる餓鬼”は典拠が明らかとなっており、その典拠と考えられる箇所は、恵心僧都・源信が多数の経典から抜粋して六道世界を説明した『往生要集』にあります。

《食物が火となる餓鬼》
  或は内外の障なけれども、用ふることあたわざる鬼あり。謂く、たまたま(わず)かの食に逢ひて食ひ()らへば、変じて猛焰となり、身を焼いて出づ。

《飲水が火となる餓鬼》
  また外の障に依りて食を得ざる鬼あり。謂く、飢渇常に急にして、身体枯竭(きかつ)す。たまたま清流を望み、走り向ひてかしこに趣けば、大力の鬼ありて、
  杖を以て逆に打つ。或は変じて火と作り、或は悉く枯れ()く。
  ※枯竭…枯れ果てること

 ここでいう「鬼」は「餓鬼」を表わしています。《食物が火となる餓鬼》はわずかな食物を見つけたのに食べようとしたら火になってしまう、《飲水が火となる餓鬼》は渇きによって水を求めたものの火となってしまうというものとなっています。鎌倉時代には約40種あった餓鬼の種類は、江戸時代成立である『熊野観心十界曼荼羅』の頃には“食物と飲水を得られない”という現代における“飢え”の意味に近くなります。

 私個人としましては、切なそうに食物や水を見つめる餓鬼の表情は、見ていると愛おしさに似た感情が沸いてきます。地獄の描かれ方に注目されることの多い六道絵ですが、私のオススメする餓鬼にも今後目を向けていただければと思います。また、“歴史工房”の冬季展示(12月~3月頃まで)の一部は“地獄”をテーマとした展示をしておりますので、そちらもあわせてご観覧ください。