夏になり、1年の半分以上が過ぎたことに気づき愕然とします。今年の前半は、5月12日に終了した春季特別展「首里城と琉球王国」にかかりっきりでした。
 さて、この展覧会では、第2部「琉球王国の美術工芸」と第4部「歴史文化の記録・復興・継承」の3分の2を担当しました。第2部は美術工芸資料の展示でしたので、観覧者の方には資料1点1点をじっくりご覧いただきたいと思い、資料と資料の間を広くしてゆったりと展示しました。そのかわり、染織資料を中心に展示替えを2週間ごとに行い(総入れ替えではありませんが)、なるべく多くの資料をご覧いただけるように心がけました。

 展示した衣裳の中で、個人的におすすめだったのは、那覇市歴史博物館所蔵の福地家資料「黄緑地芭蕉衣裳」(きみどりじばしょういしょう)です。

 この衣裳は、第二尚氏時代(18~19世紀)の制作で、 絹芭蕉といわれるほどの繊細な芭蕉布から仕立てられたものです。王族や士族の男性が王府の儀式や行事で着用した礼服で、朝衣(チョウジン)といいます。
 このような緑色の朝衣は「青芭蕉(オーバサー)」といい、王子・按司(あじ)階級の男性が着用しました。按司とは、琉球王国成立以前は地域の支配者のことで、後の時代に王国の位階の1つとなり、上級士族が任命されました。それより下位の士族は黒色の朝衣「黒朝(クルチョウ)」を着用していました。展示した緑色の朝衣は佐久間御殿(ウドゥン)にあったものと伝わっています。
 「青芭蕉」を身につけた礼服姿の男性を描いた風俗画「王子按司大礼服並通常服着装図」(おうじあじたいれいふくならびにつうじょうふくちゃくそうず)が東京国立博物館にあります。展覧会では、この風俗画の写真パネルと「黄緑地芭蕉衣裳」を並べて展示し、琉球王国時代の士族男性の風俗を紹介しました。

「王子按司大礼服並通常服着装図」(東京国立博物館蔵)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

風俗画では、右側の男性が礼服を着用しています。赤地五色浮織冠(あかじごしきうきおりかん)をかぶり、青芭蕉と錦の大帯(ウフオビ)、足袋を身につけています。 この格好は王府の冠服の規定に定められたもので、琉球王国の歴史書『球陽(きゅうよう)』には、尚真(しょうしん)王48年(1524)に衣冠を制定したと記されています。
 風俗図の左側の男性は普段着で、髪には金のかんざし2本をさしています。
 展覧会では、沖縄県立博物館・美術館からお借りした模造復元の赤地五色浮織冠と男性用のかんざし2本も一緒に展示しました。赤地五色浮織冠は、王国では士族が着用したハチマチというかぶり物のうち、王子階級が使用したものです。ハチマチは階級で使用できる素材が異なりました。
 かんざしは士族だけでなく百姓階級の人々も使用していました。 かんざしも階級で素材が異なり、王子・按司は金のかんざしを身につけました。展覧会では沖縄県立博物館・美術館から真ちゅう製のものをお借りして展示しました。

王子階級の男性の礼服姿イラスト

 女性の風俗を紹介する展示も行いました。男性の礼服姿の展示と同様に、東京国立博物館所蔵の「王子婦人大礼服並通常服着装図」(おうじふじんたいれいふくならびにつうじょうふくちゃくそうず)の写真パネルとその絵に描かれている衣裳と似たものを並べて展示しました。

「王子婦人大礼服並通常服着装図」(東京国立博物館蔵)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

 風俗図の向かって右側の女性が礼服姿です。青色の綿衣(ワタンス)と呼ばれる表着をはおり、その下に胴衣(ドゥジン)と裙(カカン)、白足袋を身につけています。綿衣は士族の女性が冬期の儀式や行事で使用する表着です。その下に着ている胴衣(ドゥジン)は丈が短めで、裙(カカン)という巻スカート状の衣裳とともに着装します。左側の女性は、型染と思われる日常着を着用しています。

左右の女性のどちらも、帯を締めずに表着の前をゆったりと打ち合わせ、頭には金のジーファーをさしています。ジーファーは女性のかんざしで、柄の長いスプーンのような形をしています。男性のかんざしより大きいつくりです。
 女性の手の甲には針突(ハジチ)と呼ばれる刺青(いれずみ)が見られます。ハジチは古い風習で、琉球の若い女性たちが成人儀礼として施しました。

 展覧会では、右側の礼服姿の女性にあわせて資料を展示しました。ワタンスは那覇市歴史博物館蔵「紺地花文様緞子衣裳 (こんじはなもんようどんすいしょう)」を展示しました。その下に着るドゥジンとカカンは「赤地牡丹文様綾胴衣 (あかじぼたんもんようあやドゥジン)」(那覇市歴史博物館蔵)と「模造復元 白地木綿裙 (ふくげんもぞう しろじもめんカカン)」(沖縄県立博物館・美術館蔵)を、着装している様子がイメージしやすいように1つの衣桁(いこう)に上下に掛けて展示しました。

 ジーファーは、沖縄県立博物館・美術館からお借りして展示しました。このかんざしも真ちゅう製でした。

 王子階級の女性の礼服姿イラスト

さて、今回展示したかんざしが金ではなく全て真ちゅう製であったのは、沖縄ではかんざしが余り現存していないためです。その理由の1つとして、昭和13年(1938)頃から、かんざしを国に献納する動きがあったことがあげられます。この年、国家総動員法が制定され、家庭にある使っていない金属製品の回収を呼びかける声明が政府によって出されました。
 かんざし献納について、今村治華氏が著書『ジーファーの記憶 沖縄の簪と職人たち』でまとめています。今村氏は琉球大学附属図書館と沖縄県立図書館で閲覧できる昭和10年(1935)から昭和15年12月までの『琉球新報』と『沖縄日報』に掲載されたかんざし献納の記事からかんざしの本数を数えています。
 その数6670本。
 現存する上記2紙には欠号がある上、この計算には『沖縄朝日新聞』や宮古・八重山地域の新聞などの沖縄県で発行された他紙の記事は含まれていません。沖縄戦で新聞を含めた多くの歴史史料が失われていますので、もはや正確な数字を出すことはできませんが、上記2紙から拾った数字の合計だけでも、驚くほど多くのかんざしが献納されています。
 かんざし献納の運動からは、当時の軍国主義の広まりを指摘できますが、沖縄ではそれだけが背景ではありません。

 明治12年(1879)のいわゆる琉球処分後、沖縄では本土への同化政策が進められました。主に学校教育現場で行われ、標準語(日本語)の使用や、琉球王国独特の髪型や服装などを本土と同じように改める風俗改良といったヤマト(日本)化を目指す指導が教師により進められました。

 「沖縄学の父」といわれる伊波普猷(いはふゆう)は、「中学時代の思出」(『伊波普猷選集』中巻 所収)で、明治24年(1891)に教師から強制された自らの断髪について書き残しています。このように男子の断髪からはじまった風俗改良は、明治30年代になると、女子生徒の風俗改良などが焦点となっていきました。

 沖縄の一般女性の風俗改良は昭和に入ってもなかなか達成できませんでした。そのような中で起こったのが昭和12年(1937)の日中戦争です。それ以降、例えば、男性の国民服や婦人標準服といった衣服の簡素化など、全国的に人々の暮らしはさまざまな点で国の経済統制を受けるようになっていくわけですが、沖縄では、教師や行政担当者、婦人会など風俗改良を進めてきた人々にとっては、風俗改良の都合のよい機会となったのでした。かんざし献納も国への金属供出のためだけでなく琉髪の廃止も狙っていたのです。

 そして、金属回収令が発令された昭和16年(1941)以後は、先に書いたとおり、新聞や公文書などの多くの歴史史料が失われたため確認はできませんが、かんざし献納の動きはさらに加速したと想像できます。また、昭和19年(1944)の「十・十空襲」や翌年3月の米軍上陸以降の激しい攻撃によって、沖縄の各地は地形が変わるほどの廃墟となり、人命とともに多くの文化財が失われました。多くのかんざしも消失したことでしょう。
  

 「首里城と琉球王国」展での3本のかんざしの展示は、琉球王国時代の文化や風俗を紹介したものでしたが、角度を変えて見てみると、同化政策推進などの近代化の過程や沖縄戦において近世以前の文化や資料が多く失われたという、近代の沖縄がたどった歴史の一面が浮かび上がりました。そのことをヤマト側である筆者は忘れてはならないと感じた展示でした。

主要参考文献

  • 堀場清子 「琉装よ、さようなら : 沖縄女性の服装小史」『沖縄文化研究』14 法政大学沖縄文化研究所 1988
  • 那覇市総務部女性室那覇女性史編集委員会編 『なは・女のあしあと 那覇女性史(近代編)』 1998
  • (財)沖縄県文化振興会史料編集室編 『沖縄県史 各論編 第5巻 近代』 2011
  • 沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 『沖縄県史 各論編 第8巻 女性史』 2016
  • 今村治華 『ジーファーの記憶 沖縄の簪と職人たち』 南方新社 2022