これまで、当コラムでは庄屋・大庄屋を勤めた家筋の女性の手紙を紹介してきましたが、当館には百姓身分の女性が書いたと考えられる手紙も1通あります。

写真1 いそ書状(兵庫県立歴史博物館蔵)

 これは丹波国多紀郡福住(ふくすみ)村(現丹波篠山市)に残された資料です。内容について、言葉を補わずにそのまま現代の言葉に直すと次のようになります。

一筆申し上げます。私は無事に暮らしています。
私はあなたさまの件で垂水村に帰りました。お話ししたいことがたくさんありますので、至急お出でくださるようお頼みします。かえすがえす、お話はお会いしたうえで。何卒お返事ください。
きべさま      いそ

 最後の署名から、「いそ」という女性が書いたものであることが分かります。しかし、ごく個人的なやりとりであるため詳しい事情が書かれておらず、読み取れるのは手紙の相手に来てほしいとお願いしていることくらいです。

 女性の手紙を研究している者として非常に興味をそそられたのですが、この資料だけでは手紙が書かれた背景も経緯も分かりません。もう少し事情が分かれば…と思いながら、この手紙と一緒に包紙に包まれていた文書を開けると、そこに詳しい事情が書かれていました。

写真2 奉差上口書覚(密通一件につき)(兵庫県立歴史博物館蔵)

 これは、天保12年(1841)4月15日、福住村の休兵衛(きゅうべえ)から村役人に宛てられた文書で、内容をまとめると次のようになります。

 私(休兵衛)は、いその夫・休左衛門(きゅうざえもん)が百日稼ぎ(ひゃくにちかせぎ:農閑期に伊丹や灘などの酒造地へ百日間だけ出稼ぎに出ること)に出かけている間にいそに密通し、休左衛門が戻った後も留守を狙って入り込んでいるところを見つかった。隣人が仲裁に入ってくれたが、不十分な詫びであったため休左衛門は納得しなかった。休左衛門は妻の不埒(ふらち)のせいで独り身になってしまったので人手が足りず、百姓としての生活に支障が出ており、村役人らの耳にも入ることとなった。色恋沙汰のことであるので当事者同士で内々に早く解決するよう言われたが、私は心得違いをしていろいろと反論して理屈ばかり申し立てたので、ついに呼出状が出された。これは私の不調法ゆえのことであり、どのような仕置きを受けようとも一言の申し分もない。

 この文書自体は原本ではなく控えのようですが、末尾の署名部分の印は爪印(つめいん)となっており、休兵衛が戸籍筆頭者(家の当主)ではないことが分かります。また「若気の悪心起り」とも書かれていることから、休兵衛は所帯をもたない若者であったとも考えられます。

 この関連文書を踏まえて、再度いその手紙を読んでみましょう。宛名の「きべさま」は密通相手の「休兵衛さま」であることが推測されます。平仮名や話し言葉が多用されるのは女性の手紙の特徴のひとつでもありますが、この「きべさま」も耳で聞いた音に沿って文字化したのでしょう。
 本文には「あなたさまの件で垂水村に帰りました」とあるので、休兵衛の密通を理由として、実家に帰されたようです。はっきりと離縁とまでは書かれていないので、この時点では処分が決まるまでの一時的な帰省なのかもしれません。もしそうであれば、村役人による調停を経て離縁が決まった段階で休左衛門からいそへ離縁状(いわゆる「三行半(みくだりはん)」)が渡され、正式に離縁成立となります。
 手紙はいそが実家の垂水村(丹波国多紀郡垂水村〔現丹波篠山市〕)に戻された後に書き、福住村の休兵衛宛に届けられたものと考えられます。あなた(休兵衛)とのことで実家へ帰されたが無事に暮らしている、話したいことがあるので会いに来てほしい。背景が分かると、急に人間関係が立体的に見えるようになり、この短い手紙が深い意味の込められたものであることに気づかされます。

 また、村役人宛の公的な文書のほうでは、休兵衛がいそに対して「無体之密通」をしたと表現されていました。しかし、あくまで文章から感じる印象でしかありませんが、いそが書いた手紙を読むと、彼女の側も気持ちがあったように見えてなりません。公的な文書でのいわゆる「建前」と、私的な手紙に記された「本音」が対照的です。さらに、この手紙は村役人宛の公的な文書とともに保管されていたわけですが、休兵衛まで無事に届けられ、読まれていたのかが気になるところ。
 休兵衛はこの文書が書かれた時点では「仕置き」を待っている状態だったようですが、本件に関する資料はほかになく、3人の結末は不明です。休左衛門・いそ夫婦が離縁となったのか、休兵衛にはどのような処分が下されたのか、いそが休兵衛に話したいこととは何だったのか、今となっては分かりません。

 庶民女性、しかも百姓身分の女性の書いたものが残されているということは非常に珍しく、貴重な資料であるといえます。一文字ずつしっかりとした筆致で書かれるものの、庄屋筋や大名家の女性の書いたものと比べるとやはり文字の書きぶりは少々不慣れに感じられます。漢字も少なく、ほぼ平仮名で記されており、普段あまり文字を書く機会のない いそ自身が記したものと思われます。それでも、自ら筆をとって伝えたいことがあった。この手紙からは、そのような いその強い想いが感じられます。