当館の学芸員はこのコーナーと「友の会だより」に「学芸ノート」というコラムを担当している。筆者は最近どちらも寺社巡りの話を記すことが増えてきたが、それは仕事の中での出来事を契機として参拝することがあり、京都愛宕神社の段(れきはく講座第50回)は、館蔵資料の中に描かれていたのがきっかけであった。今回も館蔵資料の点検中に参拝を思いたったという内容である。

 平成28年春に担当した特別企画展「歴史をいろどる群像―館蔵コレクションにみる―」の準備で、3月の中頃に出品資料の「心月(しんげつ)元昇(げんしょう)」という有馬温泉寺(神戸市北区)の中興開山である黄檗(おうばく)僧の肖像画をみているときであった。以前から思っていたが、この像の面長な面相は、平成22年に亡くなられた俳優の藤田まことさんにそっくりである。

写真1「心月元昇像」(部分)

 私の子供の頃は、「てなもんや三度笠」、高校時代は「必殺シリーズ」、その後は「はぐれ刑事純情派」「剣客商売」などの主役をされていた。藤田さんは歌もうまく、ものまねや舞台で東海林(しょうじ)太郎(たろう)さんの扮装をして「名月赤城山」など歌われたのが思い出されてきた。

 東海林太郎さんの歌の中に、昭和9年(1934)に出された「野崎小唄」(作詞 今中楓渓、作曲大村能章)がある。出だしは、「野崎詣りは屋形船でまいろ」である。「のざきまいり」とは、大阪府大東市野崎にある曹洞宗福聚山慈眼寺(のざき観音)で5月1日から一週間あまり行なわれる「無縁経法要」へ参拝することで、JR野崎駅からお寺まで約1キロメートルの参道に露店が並び大勢の参拝者でにぎわう。「野崎小唄」はこれの宣伝用に作られ、ヒットして全国的に有名になったようである。歌詞の中に「呼んでみようか土手の人」とあり、この歌は落語の「野崎詣り」が元になっている。

 落語の「野崎詣り」は、亡くなられて間もない3代目桂春團治さんの代表的な演目のひとつとして知られ、追悼番組でも紹介されていた。その内容は、のざき観音へ屋形船で向う人と土手を歩いて向う人の掛け合いが題材となっている。屋形船は、大坂の天満橋から寝屋川を遡上して住道(すみのどう)まで運航していたようであるが、現在の寝屋川は、護岸工事がされて、土手はほとんどみられない。

 現在、大阪市内からのざき観音へ向うには、大阪環状線の京橋駅で片町線(学研都市線)の快速に乗り、住道駅で各停に乗り換えて野崎駅下車となる。5月の「のざきまいり」の時期まで待てなかったので、4月初旬、桜が満開間近のころに参拝した。江口の君が寺を再興したという伝説があり、安産祈願やお礼の参拝者が多いように思われた。境内には、近松半二作「新版歌祭文」(野崎村の段)に登場する「お染久松」の碑がある。また、近松門左衛門作「女殺油地獄」にもゆかりがある。

 「のざきまいり」を、そのうちいつかはと思っていたが、館蔵の「心月元昇像」を見てから、上記のような思い出が脳裏をよぎり、出かけることとなった。次は、どのようなきっかけでどこへいくか、それを探しているこの頃である。