学芸員コラム
2016年4月15日
第73回:神戸・北野煉瓦(れんが)めぐり 第1回
◆ 写真1 風見鶏の館〔明治42年(1909)頃〕
兵庫県立歴史博物館主催の見学会・歴史の旅「竹中大工道具館と北野周辺を歩く」が平成28年5月13日(金)に開催されます。今回は新幹線の新神戸駅付近に新築・移転した竹中大工道具館を見学し、その後に時間の許す限り、明治大正期の洋風住宅が立ち並ぶ北野町山本通界隈(いわゆる北野異人館街)を散策する予定です。先日、北野山本通方面に歴史の旅の下見に行ってきたのですが、その際に目にしたものについて今回の学芸員コラムで記したいと思います。
幕末に開港した神戸は、明治初頭より急激に近代化が進められ、横浜とともに国際的な港湾都市として発展していきました。明治初頭の神戸に、わが国に到達した西洋の商人達は港を見下ろす小高い丘の上に相次いで住宅を築きました。神戸市中央区北野・山本通界隈には明治から大正期にかけて建てられた洋風住宅が、現在も約70棟が現存しており、国際都市・神戸らしい景観を形成しています。
北野のこれらの洋風住宅はベランダのついた木造建築であることが特徴です。ベランダは伝統的な和風建築にはあまり見られないものかと思われます。おもに南側の壁面にベランダは設けられますが、東や西側にも回り込んでいるものも見られます。このようなベランダ付きの洋風住宅は、欧州の勢力がアジアに進出した時に、暑さに不慣れな欧州の人々が、日差しが強いアジアの気候に対処するために作り出された様式と考えられています。ただし北野の洋風住宅の多くでは、ベランダ全体または一部がガラスに覆われたサンルームのようになっており、暑く湿度の高い夏と、寒い冬のいずれの季節にも快適に過ごせるように改良が進められたものと考えられます。
◆ 写真2 イギリス下見
また北野の洋風住宅の外壁は、板材を水平方向に張っていく「下見板張り」という手法で仕上げられているものが多い点も特徴です。下見板張りは上下の板材が互いに少しずつ重なり合うように張っていきますが、その際に板材の重ね方により大きく2種類に分けられます。
この洋風住宅の壁面も下見板張りにより仕上げられていますが、それぞれの板材の下端を、その下の段の板材の上に少しずつ重ねるように張っており、窓に取り付けられるブラインドのような外観を呈しています。この種の下見板張りは「イギリス下見」または「南京下見」「アメリカ下見」などと呼ばれます。壁面自体に対して板材は傾いてに張られることになり、下に記すドイツ下見と比べて施行が比較的容易で、近代日本の洋風住宅の壁材として広く普及した工法といえます。
ちなみにこの洋風住宅の屋根(棟)の両端には、城郭建築によく見られる鯱瓦(しゃちがわら)が載せられていました。外国人が居住するための洋風住宅とはいえ、実際に建設にあたった明治期のわが国の大工の棟梁が、格式の高い建物の装飾として古くから慣れ親しんだ鯱瓦を採用したのかもしれません。
◆ 写真3 ドイツ下見
写真3の建物の壁もやはり下見板張りで仕上げられています。ただし、写真2のイギリス下見とは技法が異なっています。壁に貼り付ける板材の重ね目で、板厚の半分を削り、そこを互いにかみ合わせるように上下の板材を重ねています。この手法を「ドイツ下見」といいます。ドイツ下見では壁面が平坦になるように(目地の部分の凹みは除く)板材が貼り合わされる点で、イギリス下見とは外観が異なっています。
◆ 写真4 異人館街の土台を築いた「煉瓦(れんが)」
北野の町を散策すると、先に記したような洋風住宅が目に入ってきますが、少し目線を下げて歩いてみると、住宅用地を画する塀や門柱などに数多くの煉瓦が用いられていることがわかります。
煉瓦は欧米を中心として世界各地で広く建設資材として用いられましたが、木造の建築が一般的であったわが国では原則的に煉瓦が建設資材として用いられることはありませんでした。わが国で煉瓦が本格的に用いられるようになったのは幕末の長崎、幕府が築いた軍需工場(造船所)からであり、明治期に入ると洋風建築の技術とともに建設資材として煉瓦およびその製造技術が流入しました。鹿鳴館に代表される煉瓦建築は、明治期におけるわが国の西洋化・近代化のシンボルとなっていきます。
神戸では明治元年(1868)に神戸外国人居留地で着工した下水道建設工事に早くも煉瓦が用いられており、また明治2年春より建設が始まった大阪・神戸間の鉄道にも煉瓦が使用されていることから、明治初年より神戸には膨大な量の煉瓦が供給されていることがわかります。わが国の近代化を象徴する煉瓦やその構造物については、次の機会に改めて記したいと思います。