学芸員コラム
2016年2月15日
第71回:特別企画展「出石焼-但馬のくらしとやきもの-」より
兵庫県立歴史博物館では平成28年1月16日(土)から3月6日(日)までの間、特別企画展「出石焼(いずしやき)-但馬(たじま)のくらしとやきもの-」を開催しています。
今回のコラムでは展覧会で展示中の出石焼の名品について記します。この花瓶は、籠(かご)の側面の窪(くぼ)んだ部分に、ツバメと思われる小鳥が巣を作り、そこでヒナを育てる様子を写実的にあらわしています。一見、籐細工や但馬名産の杞柳(きりゅう)製品に見間違えるかのような出来栄えですが、実はこれ、やきものなんです。
出石焼は真っ白な磁器・白磁が良く知られています。この作品は籠や小鳥や巣、さらに小鳥が口にくわえている餌(えさ)の色を、当時としては新開発の顔料で着色し、その上に透明釉をかけて焼いた結果、このように色も形も極めて写実的な造形に仕上がったのです。この作品の底裏には青い顔料で以下の文字が記されています。 「大日本但馬國出石磁器會社 By The Artist Mr. Yasukiyo Tomoda of Izushi Porcelain Company Tajima Japan」
「出石磁器會社」とは明治35年(1902)に、出石の窯元有志が設立した「出石陶磁器改良株式会社」のことを指すものと考えられます。そして作者として名が記されている“Mr. Yasukiyo Tomoda”こと友田安清(号、九渓)は、出石焼の改良指導のため明治32年(1899)、出石陶磁器試験所の所長として石川県から招聘(しょうへい)されました。友田は文久2年(1862)に加賀藩士の家に生まれ、地元で絵画や陶画を学んだ後、明治18年(1885)に東京にてドイツ出身のワグネルより顔料調整法を学びました。明治20年(1887)金沢工業学校の設立に伴い陶画教師として技術者の育成に努めましたが、4年ほどで教職を辞し、西洋式の陶画顔料と釉薬の製造を始めました。
出石における友田の改良の主な成果は、特に磁器の素地と絵付けの改良でした。素地については従来の陶石に、出石郡内を踏査して採集した材料を混ぜ合わせることにより、在来の白磁より一層純白度を高めたと記録されています。絵付けについては、東京時代にワグネルより学び、石川県時代に自らが開発した西洋式の顔料を導入することにより、造形に優れた当時の出石焼に豊かな彩りをもたらしたものと考えられます。
一方、友田安清は陶磁器生産を効率化し価格を下げるための改良も行っています。その一例として磁器の絵付けの効率化があげられます。
出石焼は江戸時代後半の天明4年(1784)から生産が始まり、出石の名産品として現在も生産を続けています。当初は陶器を焼いていましたが、九州・肥前国の平戸領から来訪した陶工の指導により、寛政年間(1789~1801)には出石で磁器生産に転換しました。江戸時代の出石焼は肥前国の磁器・伊万里焼に類似した、白地に青色の顔料で絵付けを行う染付(そめつけ)の日常雑器を主に量産していました。明治期には造形に優れた芸術作品としての白磁を生み出す一方で、染付の日常雑器も出石の主力商品として引き続き量産されていました。絵付けは江戸時代より職人が手で描いていましたが、友田はそれを効率化するために銅版転写による絵付けを出石に導入したのです。
銅版を印刷原版とし、その文様を陶磁器の表面に転写して絵付けを行う手法を銅版転写あるいは銅版絵付けと呼びます。わが国において銅版転写は明治20年前後に肥前と美濃の多治見において相次いで実用化されていますが、友田は美濃より職人を呼び、出石の陶工に銅版転写を学ばせました。また自らは銅版の原案を作成しそれをもとに原版を作らせたと伝えられます。写真の土瓶は、戦前の著名なコウノトリ繁殖地・出石鶴山の様子が銅版転写により描かれています。「鶴山」や「上」の銘があることから、現在も出石で操業する上田窯の製品ではないかと考えられます。
籠目小鳥細工花瓶と鶴山を描いた土瓶。これらは互いにまったく異質に見える磁器ではありますが、ともに友田が出石に蒔いた種子が実を結んだものと言えます。芸術作品の改良と日常雑器の量産化という両面で出石焼に進歩をもたらした友田安清は、明治38年(1905)まで出石で指導を行い、石川県に帰郷後は硬質陶器の製造を行う林屋組〔現在のニッコー株式会社の前身〕の設立に携わることになりました。