学芸員コラム
2014年12月15日
第57回:私の好きな少女
「私の好きな少女」という記事が異なる雑誌に同じタイトルであります。
1つは大正12年(1923)1月号の『少女画報』の記事、もう1つは昭和9年(1934)1月号の『少女倶楽部』に掲載されたものです。
『少女画報』は明治45年(1912)に『婦人画報』の姉妹紙として創刊された少女雑誌で、抒情性にあふれる挿絵や少女小説に力を入れていました。『少女の友』で拒否された吉屋信子の『花物語』を掲載したのは同誌です。
『少女倶楽部』は大正12年に創刊された後発の雑誌です。「おもしろくてためになる」というコピーからも分かるとおり、娯楽をとおしての教化という性格が強く、健全性を打ち出して、地方で多くの読者を獲得しました。
どちらの記事も、当時、それぞれの雑誌によく登場していた抒情画家や小説家、教育家などが、自分が好む少女像を述べたものです。
『少女画報』の記事では、自らの作品に「抒情画」と言葉を使用し始めた画家である竹久夢二と蕗谷虹児が、口絵と本文各1ページずつ使い、少女について思うことを絵と文章で表しています。
竹久夢二は、「おおきくなった所謂(いわゆる)婦人よりも「少女」が好きです」と書いています。それは、「少女は愛らしい動物のような純新(フレッシュ)な美しさがあるから」で、その美しさは「教えられた美しさでなくて、もっと直接な心持ちの美しさ」と夢二は語っています。
蕗谷虹児は、自らがいつも描いている少女は「スースと背ののびたそして涙もろい実に感傷的な少女ばかり」で、それは「一種の幻想表現」であり、「現実の健やかな少女達に、こうあって貰い度(た)い等とは、けっして望みません」と記しています。そして、「柔和な心の持主である上に心から、芸術を理解してくれ」、「ある厳粛な、それで居て実に少女らしい権威を」持つ少女ならば、「心から大好きになる事が出来ます」と書いています。
『少女倶楽部』の記事では、教育家の下田歌子と村岡花子、小説家の佐々木邦と千葉省三、画家の多田北烏、山口将吉郎、林唯一、漫画家の田河水泡が、それぞれが思い描くあるべき少女像について数行ずつ述べています。(ちなみに、村岡花子は戦前の少女雑誌においては、翻訳家というより、教育家として記事を書いたり、座談会で発言したりしていました。)
それぞれが述べる理想の少女をあげてみます。
下田歌子
朗かで無邪気で正直で、熱心で必ずやりとげる少女
多田北烏
笑顔の豊かな少女
村岡花子
ものいいのはっきりしたにこやかな少女
みなりはきちんとしていること
お化粧に熱心なのは感心しません
佐々木邦
朗かで聡明な少女
山口将吉郎
明朗快活な近代的型(タイプ)の少女
しかも日本女性固有のつつましさとはにかみを忘れない少女
田河水泡
女中と一緒になってお母様のお手伝をしている少女
千葉省三
明るい朗かな少女
その上適度につつしみ深く、自分を制することを心得ている
林 唯一
持って生まれた性質に素直な子
修養や反省の必要なことは勿論
さて、この2つ記事を比べてみると、それぞれの時代と雑誌の特徴が反映されていることが分かります。自由主義的な空気が漂っていた大正の『少女画報』の記事では、繊細な少女の挿絵で人気のあった画家に記事を依頼し、夢二は美しさにこだわった少女像を、虹児はいろいろ述べてはいるが、実際の少女達にはお手本にしにくい少女像をあげるというように、浮き世離れした少女の姿を提示しています。それは、上記にもあるように抒情的な挿絵や少女小説に力を入れていた『少女画報』ならではの少女像と言えるでしょう。
一方、国際連盟を脱退した翌年にあたる昭和9年は、世情がぎすぎすとしはじめてきた頃だからか、『少女倶楽部』の記事は、雑誌で活躍していた画家や小説家だけでなく教育家にも依頼しています。そこに示される少女像は、読者の少女達がお手本に出来るような現実に即したものとなっています。また、「右手に教科書左手に少女倶楽部」とうたっていたように、娯楽をとおして学ぶという『少女倶楽部』の方針が記事にあらわれて、教訓的な少女像があげられています。
平成の世となって20年以上過ぎました。現在、少女は戦前のように少女雑誌とその周辺のみのものではなくなり、アニメ、漫画、イラスト、小説、ゲームなどの多様な表現で、数多くの媒体に描かれるようになりました。未来の人がもし、現在たくさん描かれる少女を眺めるとしたら、そこに平成という時代を見るのではないのでしょうか。ただ、そこから導き出される時代の特徴がどんなものになるかは、考えるとすこし怖いような気がします。