学芸員コラム
2022年1月15日
第135回 明治期の浮世絵にみる女性の洋装
昨年の夏、令和3年7月17日から9月5日にかけて、兵庫県立歴史博物館では特別企画展「唱歌!西洋音楽がやって来た -明治の音楽と社会-」を開催しました。明治の音楽史を取り上げたこの展覧会では、西洋音楽をモチーフとして取り上げている明治期の浮世絵の展示も行いました。その中で、洋装の女性を描いた作品があります。
1887年(明治20年)9月出版の豊原国周画「皇后宮御製唱歌」と同年12月出版の楊洲周延画「梅園唱歌図」です。国周は月岡芳年、小林清親とともに「明治浮世絵の三傑」と称される浮世絵師で役者絵で知られています。周延は国周門下で、美人画に優れ江戸城大奥などの風俗を描き人気を博しました。
どちらの作品も、デイ・ドレスを身につけた女性が描かれています。首元がつまった長袖の洋服で、日中に外出する時に着用するものです。後述する宮中儀式の洋服規定においてはローブ・モンタントにあたります。
これらの浮世絵が出版された時期は、いわゆる鹿鳴館時代で井上馨や伊藤博文などが不平等条約改正のため欧化政策を進めていた頃です。女性の洋装も日本が文明国であることを西洋諸国に示すためであり、1886年(明治19年)6月23日に当時の宮内大臣であった伊藤博文による婦人服制に関する通達が出され、宮中で洋服が採用されることになりました。
この通達は、今後、皇后が場合によっては西洋服装を用いるので、皇族、大臣、政府高官、華族などの婦人も、宮中の儀式では礼式にかなう西洋服装を着用するようにという内容で、具体的な服装も次のとおりに定められました。
- 大礼服 マントー・ド・クール
新年式に用いる
襟ぐりを大きく開け、袖なしもしくは短い袖で引き裾がついたドレス - 中礼服 ローブ・デコルテ
夜会、晩餐などに用いる
襟ぐりを大きく開け、袖なしもしくは短い袖のドレス - 小礼服 ローブ・ミーデコルテ
夜会、晩餐などに用いる
襟ぐりをローブ・デコルテほど大きく開けないドレス - 通常礼服 ローブ・モンタント
宮中の昼の陪食などに用いる
立襟、長袖で後ろの裾が長いドレス
さて、女性の洋服採用に積極的であったのは伊藤博文たちだけでなく、明治天皇の皇后である昭憲皇太后もその一人でした(その根底には欧化政策とは別の考えがあったようですが)。皇太后の最初の公的な場での洋服着用は1886年(明治19年)7月30日の華族女学校への行啓でした。そして、皇太后は寝間着以外は洋服で過ごすようになり、同年11月には女官の過半数も洋装になっていたといいます。
さらに1887年(明治20年)1月27日、昭憲皇太后は洋装を奨励する思召書を出しました。しかし、1887年(明治20年)9月の井上馨の外務大臣辞任や1889年(明治22年)に外務大臣であった大隈重信への襲撃事件以降、欧化政策は下火になり、女性の洋装は上流階級のみにとどまりました。
洋装の女性を描いたこの2枚の浮世絵には、どちらにも昭憲皇太后と思われる人物が描かれています。「皇后宮御製唱歌」では、ひときわ大きく描かれる右側の女性が、「梅園唱歌図」では中央で少年とともに立っている女性が皇太后と思われます。
国周の「皇后宮御製唱歌」は、昭憲皇太后が1887年(明治20年)3月に華族女学校に下賜した歌「金剛石」「水の器」をテーマとしたものです。皇太后を囲み、小さく描かれる人物は華族女学校の生徒でしょう。
周延の「梅園唱歌図」は、水辺で花開く梅の木を背景に洋館で唱歌を楽しむ女性と少年を描いており、左右の女性は女官、皇太后の隣に立つ少年は皇太子と考えられています。
ここで2枚を見比べてみましょう。洋装の女性の描き方で異なる点があります。「梅園唱歌図」では、ドレス姿の女性のウエストは細く描かれていますが、「皇后宮御製唱歌」ではウエストは細いどころかふくらんで描かれています。まるで、着物のシルエットのままドレスを描いているかのようです。
今まで記したように、この時期の女性の洋服は政治的な理由のため採用されたものです。上流階級の女性たちはいわば強制的にドレスを着用することになったわけですが、浮世絵の主な購買層である庶民にとってはドレス姿の女性たちの出現は雲の上の人たちがいきなり珍奇な格好をし始めたように思えたでしょう。そして浮世絵に描かれる洋装の女性たちに対し、着物の女性を見るときと同じまなざしを向けたとすれば、洋装の時に初めてあらわになる女性の体型に関心を持たなかったのではないでしょうか。
国周も洋装の女性に着物女性の美を求めていたとしたら、洋服を着用したときのプロポーションに美しさを見いだすことはなかったに違いありません。そのため国周は洋装の女性を、着物を着ているかのようなシルエットで描いたのではないでしょうか。
一方、周延の描く洋装の女性はウエストをコルセットで細く絞ったシルエットで、ドレス姿の女性の体型が美しく描かれているように現代の私たちには思えます。しかしそこに周延自身が美しさを感じていたかどうかは別問題です。この点はもう少し考えてみたいと思います
ともあれ、洋服は上流階級以外には普及せずに女性たちの多くは和服を好みました。洋服が一般的になるのは昭和まで待たないといけません。洋服を着こなし、そこに独自の美しさを求めるようになるまでには長い時が必要でした。
このように、日本に西洋文化が取り入れられるようになったばかりの時期に出版された2枚の浮世絵を比べると、その混乱した様相が読み取れ興味深く感じます。
- 《主要参考文献》
- 植木淑子「昭憲皇太后と洋装」(『明治聖徳記念学会紀要』50)2012
- 彬子女王「女性皇族の衣装の変移について-明治の洋装化がもたらしたもの-」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』24) 2019
- 山村明子「楊洲周延作「貴顕舞踏の略図」に関する一考察」(『日本家政学会誌』72)2021