播磨国の西北部一帯を占める佐用荘(さようのしょう)は、赤松一門の本貫地としてよく知られています。佐用荘の領域は、佐用郡の主要部分のほか宍粟(しそう)郡、赤穂郡の一部にも及ぶ巨大荘園でした。現在の市町では佐用町、宍粟市、上郡(かみごおり)町のそれぞれ一部となります。今回は、赤松円心の没後、この佐用荘の地頭職がどのように相続されていったかをみながら、播磨赤松氏の歴史の一側面をうかがってみたいと思います。

 赤松円心は元弘3年(1333)の六波羅探題攻略の功績で、建武政権から佐用荘の地頭職を与えられました。赤松家は、本来は佐用郡を中心に盤踞していた宇野氏の一族で、荘内南端の赤松村(上郡町)に拠点を構えた分家だったと考えられています。近年新史料の発見があり、佐用郡における宇野氏の実在は平安末期ごろまでは遡り得ることが確実となりました。赤松家は、鎌倉幕府滅亡によって、荘内の一単位を基盤とする小勢力から、巨大な佐用荘全体の地頭へと飛躍したのです。

上郡町赤松地区遠景

 その後、後醍醐天皇と足利尊氏との対立が激化、建武新政は崩壊して南北朝内乱となります。建武3年(1336)、円心は赤松村の白旗城で新田義貞の軍勢を足止めし、尊氏の九州での再起を支えました。この功績によって円心は室町幕府の播磨守護職を獲得、長男の範資(のりすけ)も摂津守護職に補任され、一家で摂津・播磨の守護職を保持することとなりました。

白旗城跡遠景(赤松地区より)

 円心は、観応の擾乱へと世情が揺れ動きつつある貞和6年(1350)正月に没しました。この年(2月に改元されて観応元年)12月、将軍尊氏は、円心長男で播磨守護職も継承していた範資に、彼の相続分を承認する文書を与えています。

 この文書には多数の所領が列挙されていますが、そのうち佐用荘で範資が相続した分は次のとおりです。

  赤松上村、三川村、江川郷、太田方、広瀬方、弘岡方、本位田(ほんいでん)、下得久(しもとくさ)、白旗鎮守八幡・春日両社神主職

 ここにあげられた荘内単位を地図に落としてみましょう。一見してわかるように、やはり家督継承者だけあって、佐用荘の大部分を相続していることがわかります。なお、これらの所領は範資以後もおおむね彼の子孫(七条流と呼ばれます)が継承していったようです。

佐用荘の範資相続分(基図:国土地理院電子地図20万、2021年8月調製)

 さて、円心にはこのほかにも次男貞範、三男則祐(そくゆう)、四男氏範がいました。このうち貞範が相続したであろう分については、やや後年の史料になりますが、応永16年(1409)に貞範の子孫(春日部流と呼ばれます)である頼則から満則への相続を将軍足利義持が承認した文書から推察できます。ここにはそのほかの多数の所領とともに、佐用荘内分としてはつぎの荘内単位がみられます。

  上津(うわづ)方、土万(ひじま)郷、菅野村、赤松郷内屋敷、包沢、西山

 残念ながら包沢と西山については比定地不詳です。また、上津方については範資相続分の下得久と同じものかもしれませんが確定には至りません。ひとまず、下得久と上津方とを併記したまま地図におとすとつぎのようになります。上津方、土万村、菅野村と、佐用荘の東北部分にまとまった相続分があることがわかります。また、赤松郷内の屋敷があげられている点からは、一家の本貫地として、兄弟それぞれに屋敷地が分与されていたであろうことが推察できます。

佐用荘の春日部流伝領分(基図:国土地理院電子地図20万、2021年8月調製)

 残る則祐・氏範については残念ながら円心からどれほどの所領を相続したかを知る史料は残されていません。ただ、則祐は円心生前から「中津河律師」と呼ばれており、佐用荘の東端にあたる中津川方を与えられていたことがうかがえます。

 さて、このようにみていくと、巨大な佐用荘は、その大部分を範資、東北部のある程度を貞範、そして東部の一部が則祐という相続になっていたことがわかります。この時点での相続としては、やはり長男に手厚く、次男以下は長幼順にそれなりに、となっており、まずは順当なものであったのだろうと理解できます。

 しかし、赤松家はここでみた遺領相続が確定して半年も経たないころ、観応2年(1351)4月に範資が没したことによって大きな変動を迎えます。このころは、将軍尊氏派と弟の直義派との分裂抗争が繰り広げられた観応の擾乱の真っ最中で、政情は極めて不安定でした。この年7月に則祐が突如南朝に転属、これが結果的に尊氏の勝利に大きく貢献することとなり、これ以後則祐と彼の子孫が播磨守護職を継承していくことになりました。

越部荘故地遠景(たつの市新宮町、背後の山は城山城跡)

 則祐はこの翌年ごろから守護としての本拠を揖保川中流域の越部荘(こしべのしょう)内(たつの市新宮町)に建設しはじめます。播磨西端に近い赤松村や白旗城からより播磨全体の中心に近いところへ、ということが最も大きな理由と考えられますが、ここまでみてきた円心遺領相続のあり方からみると、そもそも佐用荘には則祐自身の所領がほとんどなかった、ということも理由の一つと考えてよいでしょう。則祐流の所領は主として佐用荘の外に展開していたようです。赤松家は、こうした一定のねじれを抱えたまま室町時代へと進んでいくことになります。

 なお、佐用荘は広大で、ここにあげたもののほかにも相続先がわからない部分がいくつか残っています。このうちとくに判明してほしいと思われるのが千草(ちくさ)村です。千草村は合併前の旧宍粟郡千種町域にほぼ相当するとみられる荘内単位です。近世にはたたら製鉄地帯の一角を占めたことでよく知られており、「千草鉄」という言葉は中世からみられます。赤松氏にとっても重視すべきところだったと思われますが、いったい誰が相続したのでしょうか。もう少し考えてみたいところです。

【参考文献】

小林基伸・村井良介「中世の西播磨と佐用」(佐用町文化財報告書32『利神城跡等調査報告書』、2017年)

依藤保「続・赤松円心私論」(『歴史と神戸』337、2019年)

拙稿「播磨国竹万荘と赤松円心の遺領配分」(『中世後期播磨の国人と赤松氏』清文堂出版、2021年)