古市 晃  

 私の専門は日本古代史、それも『古事記』や『日本書紀』といった古代の史書から五・六世紀にさかのぼる国のなりたちを探ろうという研究に取り組んでいます。兵庫県には幸運にも全国で五国分しか現存していない風土記の一つ、『播磨国風土記』が残されていますが、その分析は私が所属する、ひょうご歴史研究室播磨国風土記研究班の中心的な課題の一つです。

 これら史書(それぞれを史書と呼んでよいかどうかは諸説ありますが、ここではひとまとめに史書として扱います)を用いての古代史研究は、近年では取り組む研究者が少なくなっているのですが、その理由の一つに、史書を解釈することのむずかしさがあります。古代の史書はそもそも、歴史的事実をそのまま記録したものではなく、天上界の神の子孫である天皇がこの世を治めることのいわれや、天皇の徳をたたえることを目的として編まれたものでした。したがって、その記述はかならずしも事実をそのままに伝えたものではなく、いたるところ造作や潤色が加えられています。さらに、古い時代にさかのぼるほどに、ほかの史料によって裏づけをとることがむずかしくなってきます。推理小説で、苦労して謎を解くものの、決定的な物証を得られない事例に似ているといえるでしょうか。
 『古事記』や『日本書紀』、また『播磨国風土記』のような史書から史実を探しあてるのは容易なことではありません。しかし決定的な証拠はあげられないまでも、史実に近づくための努力は続ける必要があります。歴史家が好むと好まざるとにかかわらず、史書に対する人びとの関心は高いものがあります。それに対して、どこまでが事実で、どこからが作られた部分の可能性が高いのか、明らかにしてゆく必要があるでしょう。そうしなければ、史書はいつまでも結論の出ないやっかいなお荷物のように店ざらしにされたままになってしまいます。
 播磨を主な舞台とするオケ王・ヲケ王兄弟の物語は、史書から史実を探る試みとしてうってつけの素材です。オケ王(後の仁賢天皇<にんけんてんのう>)、ヲケ王(後の顕宗天皇<けんそうてんのう>)の二人の兄弟が、父、市辺押磐王(いちのべおしはのみこ)を雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)に殺害され、逃亡して播磨の志深(しじみ。現在の兵庫県三木市志染に比定)に潜伏し、土地の豪族に仕えていたところを見出され、都に戻って即位し、皇位断絶の危機を救う、という劇的な物語です。この物語は『古事記』『日本書紀』、また『播磨国風土記』にも記されているのですが、一つの伝承が複数の史書に記録されるのは大変めずらしいことです。しかもこの三つの書物では、おおまかな筋書きは一致するものの、こまかい部分では異なるところがあるため、それぞれを読み比べることで、それぞれの史書が何のためにこの物語を記録したのか、その目的を探ることができるのです。
 たとえば、志深潜伏の経緯について、『古事記』は兄弟が現在の京都で猪甘(いかい。イノシシを飼育する人びと)の老人から迫害を受けつつ独力で逃れたかのような描写になっているのに対して、『日本書紀』や『播磨国風土記』では、市辺押磐王の従者であった日下部連使主(くさかべのむらじおみ)という人物が二人を守り、播磨へ導いたことが記されます。また『古事記』『日本書紀』では、兄弟は都へ戻った後、まず弟のヲケ王が、次いで兄のオケ王が即位し、そのまま都で生涯を終えたように記されますが、『播磨国風土記』では、二人は都に戻った兄弟がその母、手白香皇女(たしらかのひめみこ)によって迎えられた後、ふたたび志深に戻り、賀茂郡(現在の加東市・加西市)の豪族の娘、根日女(ねひめ)と恋に落ちる話が記されます。実は手白香皇女は仁賢の娘で、しかもこの時、兄弟はまだ少年として記されていますから、彼女は生まれていなかったはずです。
 こうした記述の違いはなぜ生じたのでしょうか。たいせつなことは、史書の素材が何に基づいていたのかを調べ、そのうえで、どのような物語を描き出そうとしたかを明らかにすることでしょう。そうした視点であらためてオケ・ヲケの物語を見渡してみるならば、こうした違いが『古事記』『日本書紀』や『播磨国風土記』が採用した元々の素材の違いによることが浮かびあがってきます。猪甘の老人の迫害は、それを天皇に対する服属の起源とする山城の猪甘の人びとに伝わったものでしょうし、使主の忠節は彼を祖とする日下部連氏が伝えたものだったのでしょう。『播磨国風土記』が播磨での兄弟の恋を興味深く記す一方、都で二人を迎えた母と娘を取り違えているのは、この素材が播磨で独自に発展した物語だったことを示しています。
 では結局、オケ・ヲケの物語は、さまざまな素材を寄せ集めただけの、架空の物語ということで終わるのでしょうか。そうではないだろう、と私は思います。結論だけいえば、この物語の背景には、五世紀後半の倭国の宮廷を見舞った皇位断絶の危機という非常事態があり、それに王族や豪族たちがどのように対処したのかをうかがうことができる事例といえます。清寧天皇の死とオケ・ヲケ兄弟の即位は、四代続いた允恭天皇(<いんぎょうてんのう>、雄略の父)の王統が男系では途絶え、履中天皇の王統が復活を遂げることを意味していました。しかも、市辺押磐王殺害事件が示すように、二つの王統は決して良好な関係にはなかったのです。そうであるならば、オケ・ヲケの復活劇が示すのは決して順調な王位継承物語ではなく、生々しい緊張関係をはらんだ政治的対立の所産である可能性が高いということになります。
 オケ・ヲケの物語は、こうした中央の政治の動向だけではなく、播磨の人びとがどうかかわっていたのかも知ることができる、希有の事例でもあります。あらかじめ述べたように、史書はその目的によって語る話に違いがあり、しかも性格の異なるさまざまな素材によって構成されています。その複雑な様相を読み解くのは容易なことではありません。しかしそれによってこれまで目にすることのできなかった史実の断面を明らかにすることができるとすれば、それは取り組むに値する課題といえるでしょう。史書の読解を通じてその古層に横たわる史実をうかがう私たちの旅は、まだまだ終わりそうにありません。