陰陽師(おんみょうじ)という言葉が、世間に知れ渡ったのは、やはり夢枕獏の小説と、岡野玲子の漫画の影響によるものであろう。これに映画やテレビドラマが拍車をかけたことは疑いない。不思議な呪術(じゅじゅつ)を駆使し、怪異を退治するという、あたかも超能力者のように描かれている陰陽師だが、たたりや呪(のろ)いが実際にあると信じられていた時代のことである。
その陰陽師の中でも、スーパースターになったのが安倍晴明(あべのせいめい)である。呪術の達人、式神を駆使する彼は、並びなき陰陽師として女性に人気絶大で、京都の晴明神社は、もうでる人が絶えないという。
しかしその晴明の伝説が、いくつも播磨(はりま)に残っているのはなぜだろう。晴明は摂津(せっつ)の阿倍野(あべの)で生まれた人で、墓所は京都の嵯峨(さが)にある。播磨との接点は、彼が播磨守に任ぜられたことだろうけれど、実際に播磨で暮らしたわけではない。それでも神戸市西区から加古川市(かこがわし)、佐用町(さようちょう)と、彼の伝説が伝わる場所が点在している。
その播磨を根城にしていたのが、晴明のライバル、芦屋道満(あしやどうまん)である。「正義の味方」というイメージが定着した晴明に対し、道満は悪役だ。道満は道長暗殺を請け負ったが、その呪法を晴明に見破られて播磨へ追放されてしまう。
道満屋敷とこけ地蔵
道満法師は加古川の岸村で生まれたと言われ、その屋敷は、加古川市の正岸寺(しょうがんじ)にあったとされている。JRの宝殿駅(ほうでんえき)から、加古川バイパスの高架をくぐって北へ7~800m行くと、南西方向にのびて、村の中を通る細い道がある。そこを100mほど入った所に、正岸寺がある。
境内の前は保育園になっていて、屋敷跡の面影は知るすべもないが、『播磨鑑(はりまかがみ)』などによると、かつては五畝(せ)ほどの屋敷地があったらしい。また、屋敷の傍らには井戸があったということだが、これも埋められてしまって、どこであったか今はわからない。
正岸寺境内の西側には、道満法師を祭る祠(ほこら)があった。中には、道満法師の位牌(いはい)と小像があり、今も大切に祭られている。祠の扉を開いて顔を拝ませてもらったら、少し彩色のはげ落ちた道満法師が、むっとしたような表情で前方をにらんでいた。
この屋敷跡から、直線距離で2.5kmほど東へ行った所にあるのが、こけ地蔵である。西側から平荘湖(へいそうこ)へと上る道の途中にあるが、目立たないのでよく注意していないと見落としてしまうだろう。すぐそばにあるたこ焼き屋を目印にするとよい。
お地蔵様は、本当にこけそうである。30度くらいは前に倒れていて、正面から顔を拝もうとすると、しゃがみこまなくてはならない。石棺のふたの内側に刻まれたお地蔵様である。石棺としてはかなり大きなものだけれど、どの場合もそうであるように、どこの古墳から掘り出されたものかはわからない。ここの場合には、すぐそばに平荘湖古墳群があるから、そこから持ってきた可能性があるとは思うが。
今ももうでる人がずいぶんいるようで、お地蔵様の前には、花やおさい銭だけでなく、小さな人形なども手向けられていた。
用語解説
セイメイさん
加古川には、晴明に関する場所もある。加古川線の厄神駅(やくじんえき)に近い「セイメイさん」である。厄神駅から南へ200mほどの道のそばにあるが、質素なお堂だから地元の方に尋ねないと、わからないかもしれない。
お堂の中には、凝灰岩に彫られたごく素朴な仏像が祭られている。厄神駅を作るときに掘り出されたというが、どうやらこれも石棺のふたに刻まれたもののようだ。仏像を彫り慣れた人の手になるものではなさそうで、どんな人が作ったのか気になるところである。
どんな病気も治してくれる、霊験あらたかなセイメイさんを、地元の人たちは大切に守っている。
道満塚・晴明塚
その道満と晴明が、佐用町で仲良く祭られている。西播磨天文台がある大撫山(おおなでやま)の北に位置する、大木谷(おおきだに)の村である。道満は都を追放された後、この付近に住んだともいう。東播磨よりもずっと懐が深い里山に囲まれた、静かな村は棚田の風景がとても美しく、日本の棚田100選にも選ばれている。
その大木谷は二またに分かれていて、東が大木谷甲、西が乙である。晴明塚は大木谷甲に、道満塚は乙にそれぞれ祭られているが、道満にしてみれば、こんな所でまで甲乙をつけられるのかと、歯がみしているかもしれない。お互いの塚の間に尾根がのびていて、見通すことができないのが、せめてもの救いであろうか。
どちらの塚へも、案内の看板があるから迷う心配はない。西の大木谷乙への道をしばらく行くと、右手に細く急な坂道があらわれるから、そのまま登ってゆくと道満塚へ導かれる。明るい尾根の頂上には、方形の壇があって、その中心に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立っている。一方の晴明塚は、分岐から東の道をゆくとすぐである。こちらも道満塚同様、宝篋印塔が立っているが、その奥にお堂があって、小さな厨子(ずし)に入れられた仏像や記帳用のノートが置かれている。
それにしても、いったいなぜこの場所に、二人が祭られるようになったのだろう。そして、どうして互いが見えないように祭られたのだろう。謎は多い。
用語解説
慶明寺の碑
国道175号線の玉津北交差点から東へ300mほど入った、神戸市西区平野町にある慶明寺(けいめいじ)には、晴明自筆と伝える石碑がある。自然石の一面に、梵字(ぼんじ)が彫られているが、風化が進んで、肉眼ではほとんど判読できないまでになっている。この石の下には、なぜかわからないが、鎌倉時代の悪党「花岡太郎」が封じられているという。時代も何もあったものではないが、それだけ晴明がスターだったということなのだろう。
県下で道満や晴明の伝説を伝える場所は、他にもいくつかあるそうだ。不思議な陰陽道へのあこがれは、今も昔も変わりないということだろうか。ひとつずつ探して訪ねれば、式神くらい飛ばせるようになるかもしれない。