明石海峡を渡る
明石港(あかしこう)からフェリーに揺られること20分あまり。明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)のアーチを抜けると、岩屋(いわや)の浜とその背後にある緑の山が迫ってくる。常緑樹が繁る山は、里山の雑木林を見慣れた目にはまぶしい。それを眺める間に、漁港の突堤のわきを通って、船は岩屋港に到着した。
岩屋港は、淡路(あわじ)と本州を結ぶ航路の拠点の一つとして、古くから栄えた港である。明石海峡大橋が開通した今でも、本州と淡路島をつなぐ港として、往来は少なくない。漁港特有の香りを感じながら、石の寝屋古墳(いしのねやこふん)を訪ねた。
用語解説
石の寝屋古墳
少し変わった名前がつけられた古墳は、おそらくかなり昔から知られていたのだろう。伝説では、海人(あま)である阿波(あわ)の男狭磯(おさし)の墓だと伝えているけれども、「寝屋」という名前は男狭磯とはあまり関係がなさそうだから、ひょっとするとかつては、何か別のいわれがあったのかもしれない。
港から岩屋の町並みを西へたどった所にある、「石の寝屋古墳」という看板から、矢印のとおりに細い坂道を登る。古墳は、淡路島を南北に貫く山地が、明石海峡に面する最北端の尾根の上にある。かつてはその山頂まで山道がのびていたそうだが、今は淡路縦貫道によって尾根が大きな切り通しになっていて、高速道路をまたいで橋が架けられている。
橋の手前までは車でも入れるが、ここからは徒歩で行かなければならない。橋を渡ったところからが、難行苦行の開始である。尾根までは延々と続く階段である。息を切らせながら登るにつれて、背後に明石海峡から大阪湾への雄大な風景が開けてくるのを振り返り、感嘆しながら上り詰めると、緩やかに起伏する尾根の上をたどる細い山道が待っている。
雑木や笹が、時折視界をさえぎる道を、ひたすらまっすぐに歩く。途中、道がわかりにくい所もあるが、方向を変えずに歩かねばならない。10分ほど歩いたところで、しだの間から顔を出している、ひと抱えほどの石が目についた。その右手から裏へまわると、石室がある。
石の寝屋古墳の横穴式石室は、すでに天井石が落下して、かろうじて石室の壁の一部を見られるのみである。石室の入り口は、明石海峡よりやや東、現在の岩屋港付近に向いているようだが、草木が繁茂した今では、ここからの眺望はほとんど望めない。
まだ発掘調査がされていないため、詳細は不明と言わざるを得ないが、古墳時代後期に造られたものであることは間違いない。伝説にあるような海人の墓であるのかどうかは、何とも言えないけれど、海峡付近の海に深い関わりを持っていた人が葬られているという推測は、うなずけるものがある。
巨大な橋が架かり、行き交う船の姿もずいぶん変わったであろう。その光景を見たら、墓の主は何と言うだろうか。
名寸隅(なぎすみ)の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに
藻塩焼きつつ 海人娘女 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの
心はなしに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫(かじ)をなみ笠金村(かさのかなむら)
『万葉集』巻6 935
用語解説
岩屋の浜から松帆の浦へ
岩屋の浜から松帆の浦までの道沿いには、いくつもの文化財が点在している。
岩屋神社
港から十分ほど南へ歩くと、式内社の石屋神社(いわやじんじゃ)がある。海に向かって建つ本殿には、國常立尊(くにのとこたちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)といった、国産みの神が祭られている。絵島明神(えじまみょうじん)という別名のとおり、すぐ近くの海に絵島が浮かんでいる。
絵島
海に浸食されたがけに、少し橙色(だいだいいろ)をおびた岩脈が露呈した絵島は、ちょっとした奇観である。国産み伝説にある「おのころ島」は、この絵島であるとも伝えているが、島の夕景は、それを真実ではないかと思わせてくれた。『枕草子(まくらのそうし)』にも「島は、八十島。浮島。たはれ島。絵島。松が浦島。豊浦の島。まがきの島」としてあげられている。
絵島の南には大和島(やまとじま)という小島もあるが、こちらは、島内の特異な植生が天然記念物に指定されている。
千鳥なく 絵島の浦に 澄む月を 浪にうつして 見る今宵かな
西行
岩屋城跡
絵島を見下ろす山の上には、岩屋城跡がある。戦国時代に、織田(おだ)・毛利(もうり)が戦ったときの拠点の一つでもあり、羽柴秀吉(はしばひでよし)の攻撃を受けて陥落した城である。今はただ深い森が、城跡を覆い、繁茂した草で、城跡までの道をたどることはできなかった。
伊弉諾神宮
伊弉諾尊、伊弉冉尊を祭る社はいくつもあるが、淡路市多賀(たが)にある伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)は、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であり、淡路国一宮でもある。縁結びの神社としても有名で、そのせいもあってか、境内には巨大な夫婦(めおと)クスがあり、県の天然記念物に指定されている。岩屋からは少し遠いが、訪ねてみたい宮である。
用語解説
岩屋台場群と松帆浦
江戸時代の終わり、岩屋の浜に沿っていくつもの台場が築かれた。台場というのは、大砲を設置した一種の要塞である。外国船を打ち払うために設けられたこれらの台場は、一発の弾を撃つこともなく開国を迎え、いまではそのほとんどが往時の姿をとどめていないが、もっとも北西にある松帆台場(まつほだいば)だけはよく保存されている。
現在は神戸製鋼所の用地内になっているが、ことわれば見学はできる。かつて13門の砲をそなえたという台場跡には、石垣や土塁が保存されている。台場の背後には、岩盤を深く掘り込んで築かれた、海への水路が設けられていたが、その存在を示す池が、現在も神戸製鋼所の門外に残されている。
松帆台場のあたりの浜が、有名な「松帆の浦(まつほのうら)」である。
来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪(ゆうなぎ)に 焼くや藻汐(もしお)の 身もこがれつつ藤原定家
『新勅撰和歌集』