【岩屋港】いわやこう

 本州、淡路、四国連絡の要地として、江戸時代から港の工事がくり返しおこなわれたが、風波が厳しいため挫折も多かった。現在のような港ができたのは、昭和10(1935)年のことである。

 岩屋港からは、淡路島の東岸を縦貫する国道28号線がのびており、明石海峡大橋開通後も、フェリーが本州との間を結んでいる。また岩屋漁港は淡路町の漁業産業の中枢で、タイ、タコ、イカナゴなど瀬戸内を代表する海産物が水揚げされている。

 
【石の寝屋古墳】いしのねやこふん

 淡路市岩屋小字サセブの山頂に所在する。この山頂には合計8基の古墳があり、「石の寝屋」と呼ばれるのはそのうちの1号墳である。墳丘がほとんど流出して、横穴式石室が露出しているが、石室自体も崩壊して天井石はすべて落下している。北東方向に開口する石室は、現状で長さ5.3m、幅1.3m、高さ1.3mほどの規模とされている。

 他の古墳は、1号墳から南西に離れた位置にある。正式の調査がなされていないため、詳細は不明であるが、2号墳からは6世紀後半の須恵器が採集されており、1号墳もこれと大差ない年代のものと推定できる。

 『日本書紀』などの記述によるならば、允恭天皇(いんぎょうてんのう)は5世紀前半の人であり、古墳の年代とは100年以上の年代差があることになる。従って考古学的には、伝説を鵜呑(うの)みにするわけにはゆかないだろう。しかし古墳の数が少ない岩屋周辺にあって、明石海峡を望む位置にあることから、これらの古墳が海と深い関わりをもつ人物を葬ったものであろうという推測は、許されるのではないだろうか。

 
【尋】ひろ

 日本古来の長さの単位。1尋は約1.82m。

 
【絵島・大和島】えしま・やまとしま

 絵島は、岩屋港の東に浮かぶ島である。『枕草子』にも、「島は」と記されているほど、古くから知られた名勝であったようだ。砂岩が浸食されてできた奇観であるが、この岩盤はおよそ1500万年前に、砂や礫(れき)が水中に堆積してできたものである。

 その奇観のためか、国産み神話の「おのころ島」を、この絵島にあてようとする説もある。古来より名勝として人々に親しまれており、月見の名所として『平家物語』に出てくるなど、風光明美な場所として多くの文学にとりあげられている。

 絵島の頂上には、平清盛が大輪田泊を修築した時に、人柱にされようとした人たちを助け、自らが人柱になった松王丸の供養塔といわれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っている。近年は、毎年、中秋の名月の夕べに、「絵島の月を愛でる会」がおこなわれてにぎわう。

 絵島の南には、陸続きの小島があり、大和島と呼ばれている。山上にはイブキ群落があり、兵庫県の天然記念物に指定されている。

 
【岩屋城】いわやじょう

 岩屋城は、慶長15(1610)年に淡路を領有した池田輝政が築城し、家臣の中村主殿助に守らせた。岩屋港付近を望む、標高31mの台地上にあり、徳川氏が大坂の豊臣方を包囲するための拠点であった。

 慶長18(1613)年に、由良成山に新城が築かれる際に岩屋城は取り壊され、新城の資材とされたため、城としての生命はわずか3年であった。石垣の大部分は、後に岩屋港の築造などに用いられたという。

 
【伊弉諾神宮】いざなぎじんぐう

 淡路市多賀に所在する延喜式内社で、淡路国一宮とされる。祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)。『日本書紀』では、伊弉諾尊は幽宮(かくりみや)を淡路に構え余生を過したとされ、社伝では本殿の下がその陵墓としている。例祭は4月20日から3日間おこなわれ、淡路の春を代表する祭りとして多くの人でにぎわう。1月15日の粥(かゆ)占神事や季節ごとの湯立神事など古代からの神事も継承されている。また縁結びの神様としても有名で、神社では数多くの人たちが結婚式を挙げる。

 
【御食国】みけつくに

 日本古代から平安時代まで、天皇や皇族の食物のうち、海水産物を中心とした副食物を献上した国の総称。

 
【岩屋台場群と松帆台場】
いわやだいばぐんとまつほだいば

 1853年のペリー来航以来、海防の強化を余儀なくされた幕府は、淡路島の防衛を徳島藩に命令。淡路の由良、洲本、岩屋などに台場が建設された。松帆から岩屋にかけての海岸線に、5か所の砲台(台場)が完成したのは、1863年ごろのこととされている。

 最大の台場は松帆に置かれた。M字形の台場が海に突出し、当時最新式の80ポンド砲4門を含む、13門の砲が備えられた。松帆台場の背後には、小型船が停泊するための港を設ける計画で開削がおこなわれたが、港口が風波によって破壊されることが度重なり、結局断念せざるを得なかった。このほかに、岩屋古城台場、龍松台場、拂川台場、松尾台場が置かれ、常時70人の兵が駐在したという。

 1863年7月に、幕府の軍艦朝陽丸を誤って砲撃するという事件があったが、いずれの台場も実戦には使用されず、明治維新後に取り壊された。