笠井今日子

 はじめまして。ひょうご歴史研究室たたら製鉄研究班の笠井です。 当研究班のテーマである「たたら製鉄」は、砂鉄と木炭を使って鉄を製錬する産業です。明治時代に、高炉を利用した近代的な製鉄業が確立する以前は、国内で生産される鉄の大半を、たたら製鉄によって製造していました。江戸時代においてたたら製鉄は、鍋・包丁・針などの日用品、鍬・鎌・鋤などの農具、鋸・鉋といった大工道具から碇や鎖まで、あらゆる鉄の需要を満たす基幹産業でした。その中心地こそ中国山地であり、兵庫県中西部に位置する宍粟市は、製鉄地帯の東端に当たります。        

 中国山地の周辺でたたら製鉄が盛んに行われた理由は、原料の豊かさにあります。先に述べた通り、たたら製鉄の原料は砂鉄と木炭です。砂鉄はマグマ由来の岩石に含まれる鉱物が、風化に伴って分離したものです。浸食により川底や海岸に堆積するものもありますが、たたら製鉄では、岩石を掘り崩して土砂を水路に流し込み、流水を利用して選別する方法で、大量の砂鉄を採取しました。この方法を「鉄穴(かんな)流し」、採取した砂鉄を「山砂鉄」と言います。製鉄に使える砂鉄はどこでも採れるものではありません。中国山地は、山砂鉄の産地だったのです。そして、木炭を生産するための森林資源もありました。この二つの原料が豊富に入手できる場所で、たたら製鉄は盛行しました。

 江戸時代のたたら製鉄遺跡は、多くが山深い場所にあります。原料を追って山中に進出したためとされています。たたら製鉄に従事する職人やその家族らは、製鉄工場を核とする集落「山内(さんない)」を形成し、生活していました。山内には、製鉄が行われた高殿(たかどの)をはじめ、事務所、蔵、住居、製鉄業者が信仰する金屋子神社などがありました。

 古文書を読むと、現在の宍粟市域だけでも、たたら製鉄の拠点となる「鉄山」を10箇所以上確認することができます。山内は、それぞれの鉄山に設けられました。その規模は、「1箇所の鉄山で抱える人はおよそ500人にのぼる」という記録からうかがえます。ただし、同時期に稼働するのは3箇所程度で、1つの鉄山の資源を使い切ると他の山に移るという形で、たたら製鉄を継続させていたようです。

 私はたたら製鉄研究班の調査活動の一環で、宍粟市内の製鉄遺跡のいくつかを訪れることができました。山中に突如として現れる遺跡は壮観です。一見すると苔むした平坦面でも、少し高い場所に設けられた製鉄炉の跡、水路の溝、鉄滓、かつて金屋子神が祀られていただろう祠の基壇などを確認する度に、かつてこの場でたたら製鉄が行われていたことを実感することができます。うっそうとした森林の資源が使い尽くされてしまう程の経済活動の旺盛さを想像するのも、現地での楽しみです。

▲製鉄遺跡に残る金屋子神社の痕跡。石段の正面に祠の基壇がある。

 私は、古文書など文献史料をもとに、たたら製鉄について研究するのが専門です。過去の記録や文書を読み解くことによって、例えば、鉄山が稼働していた期間、鉄の価格、製鉄業に課せられた運上銀など、が分かります。一方で、現地に残る遺跡やそこで発見された遺物は、文字に残らない人間の活動の痕跡や地理的な情報などを有しています。それを分析し、研究するのは、考古学の専門です。ひょうご歴史研究室たたら製鉄研究班は、文献史学と考古学の専門家が共に研究する場です。それぞれの長所を掛け合わせることにより、豊かな歴史像が築けると思っています。