ひょうご歴史研究室共同研究員 田路 正幸

奈良時代初頭に成立した『播磨国風土記』宍禾郡の条には、柏野里敷草村、御方里金内川で「鉄(まがね)を生(しょう)ず」という記述が見られ、約1,300年前に現在の宍粟市千種町一帯、一宮町三方地区で鉄が生産されていたことがうかがえます。以来、宍粟では中世から近世さらには明治10年代まで継続して鉄生産が行われ、「千種(ちくさ)鉄」「千草鋼」「宍粟鉄」などの名で、刀剣や鉄製品の素材として重用されていたことが知られています。

とりわけ近世になると、高殿(たかどの)の建築や炉の地下構造の発達、鉄穴(かんな)流しなどのたたら製鉄の技術が確立され、宍粟の北部一帯では、原料の砂鉄、燃料の木炭を求めて奥深い山中の随所に鉄山(てつざん)が営まれるようになります。このように人里離れた山中で生産された鉄素材は、どのような道筋を通って中継地や消費地へ運ばれて行ったのでしょうか。

播磨国北西部に位置する宍粟郡は、但馬国、因幡国、美作国と境を接し、古くより隣国との人的交流やさまざまな物資の運搬、流通が行われてきた地域であり、国境にはいくつかの峠道が設けられています。また、郡内には村と村、村と町場を結ぶ大小多くの往来や峠道が文字通り網の目のごとく張り巡らされており、これらはまた製鉄に関わる人馬や物資が行き交った道でもありました。

中世以降、播磨隣国の備前長船の刀鍛冶と「千草鋼」の関係が文献史料や刀剣銘から知られるようになります。千種からは、ミソギ峠や志引(しびき)峠を美作へ越え、吉野川を経て吉井川を下って長船に至るルートが考えられます。あるいは、千種川に沿って南下し、佐用町を経て、上郡から山伏峠を越えて備前に至るルートや、千種川を赤穂まで下り、瀬戸内海を備前へ向かうルートもあったようです。

江戸時代初め、元和元年(1615)に宍粟藩を立藩した池田輝澄により山崎城下町が整備されるのと時を同じくして、揖保川では地元商人の龍野屋や英賀(あが)屋の尽力によって山崎の出石(いだいし)まで高瀬舟の通行が可能となりました。17世紀中ごろ以降、千草屋などによる本格的なたたら製鉄の操業が行われるようになると、宍粟北部の生産鉄は一元的に山崎に集積され、出石から高瀬舟に載せて揖保川河口の網干まで下げられるようになります。網干からは海舟に積み替えられて、上方(かみがた)などの消費地に運ばれて行きました。

山崎城下町の東方にある出石の揖保川東西両岸には、船荷の積み下ろしのための石積みの舟着場が築かれ、岸沿いには舟問屋や蔵、旅籠、茶屋、飯屋などが建ち並び、宍粟の商業、流通の拠点として繁栄することとなりました。また、東岸の上流には宍粟郡の幕府直轄領の鉄山稼ぎや雑木座稼ぎを管轄する山方役所が置かれていました。出石からは鉄素材をはじめ、年貢米、板材、薪炭など宍粟の産物が高瀬舟に載せられ揖保川を下って行きました。

山崎出石の舟着場説明板
山崎出石の舟着場

千種から山崎に至るにはいくつかのルートがありますが、たたら製鉄の盛行に伴い新たに開削されたのが塩地(しおじ)峠と呼ばれる峠道です。千種町南端の下河野(けごの)から山腹の急斜面をほぼ直線的に南下し、標高468mの峠を越えて山崎町大沢へ出る延長約2.7㎞、幅約1.8mのバイパスであり、千種の鉄のみならずさまざまな物資を運ぶ幹線道路として近代に至るまで盛んに利用されていました。

塩地峠頂上の切通し
塩地峠の道標(千種町下河野)

深い山中でのたたら製鉄においては、砂鉄や木炭、生産鉄はもとより、山内(さんない)集落での生活物資や食糧などの運搬に果たした道の役割にはきわめて重要なものがあります。たたら製鉄の盛時には、それらの荷駄を人が背に負い、あるいは牛馬に載せて往来や峠道を行き交っていたことでしょう。かつて宍粟各地の鉄山や村々を結んでいた峠道も、現在ではその多くは草木に埋もれ人々の記憶からも消え去ろうとしています。宍粟市の各地には、たたら製鉄に関わる寺社の奉納品や道標、石碑などが数多く残されており、往時を偲ばせています。これらの資料も文献史料や遺跡調査とともに、貴重な歴史遺産として位置付けることが必要であると考えます。