研究員のブログ
2021年1月20日
研究員のリレートーク
研究員のリレートーク 第16回 -『播磨国風土記』研究班から-「歴史研究室での『播磨国風土記』研究」
ひょうご歴史研究室客員研究員 高橋 明裕
私は『日本書紀』などの史料批判を基に部民制、古代氏族(ウジ)などを研究してきました。古代地域史のフィールド研究を最初に行ったのは尼崎の古代史でした。猪名川流域の部民集団を研究対象にしているうちに猪名川・武庫川の上流域である摂津国川辺郡・有間郡を結ぶ内陸の連絡路に注目するようになりました。
兵庫県を研究フィールドにしてみて、『播磨国風土記』(以下、『風土記』を略す)を有する播磨が古代史の極めて良好なフィールドであることを再認識し、いくつかの自治体史等でフィールドワークを加味した『風土記』研究を行ってきました。その際は、揖保郡、餝磨郡などを主な研究対象にしていましたが、先に述べた河川上流域の内陸路という視点を摂播国境にまたがる武庫川水系・加古川水系に援用し、両河川間の内陸交通路である湯山街道に着目した共同研究をきっかけとして西摂・東播地域を結ぶ印南野に焦点を当てました。その成果が『ひょうご歴史研究室紀要』第1号(2016年3月刊)に掲載された「『播磨国風土記』からみた東播・西摂地域と交通―印南野の歴史的位置―」です。
この論考ではいわゆるナビツマ伝承を分析し、『風土記』が明石・賀古・印南3郡の地域的一体性を現わしていること、台地である印南野は南北に流れる河川(加古川と明石川)を結節する東西交通路が貫通することになり、広域的な交通体系上の枢要地となっていること、また未開地であるがゆえに倭王権主導による開発が着手された地域であることを指摘しました。『風土記』には印南野の沖を船が通れないために加古川河口から船が遡上して、賀意(かお)理(り)多(た)之谷から明石川河口の林潮まで舟を曳き越したという説話が載っています。賀意理多之谷については印南野を流れる曇川とする説と草谷川とする説があり、この論考では断案は示せていないのですが、その後、印南野の地形や考古学の教示を得て、今では草谷川の谷筋が印南野を渡る重要なルートであったと考えています。湯山街道は三木を通り、草谷川が加古川に流れ注ぐ付近にある国包の渡しに到ります。国包から加古川を遡上したところに来住・下来住(『風土記』では「伎須美野」)があり、ここは大伴氏が領有を願い出た土地であると『風土記』が伝えます。下来住の加古川の対岸が中世の大部荘ですが、「大部」の名称は古代の大伴氏の存在からきている可能性があります。倭王権が印南野の開発のために大伴氏をこの周辺に派遣したのではないか、とみています。揖保郡の播磨斑鳩寺は聖徳太子によって水田が施入された寺院ですが、その水田の管理に遣わされたのが大伴氏の人物だったことが『日本霊異記』に見えています。印南野の開発のために上宮王家が主導して大伴氏などの氏族が加古川水系の賀毛・賀古・印南郡及び揖保郡に派遣されていたことに注目したいと思います。印南野をめぐる倭王権と吉備勢力との政治史の一端を『ひょうご歴史研究室紀要』第5号(2020年3月刊)の「『播磨国風土記』の印南別嬢伝承からみた印南野」で引き続き追究しました。そこでは、印南野の港湾、魚住泊についても論究しています。
この地域の山陽道については多くの研究がありますがが、明石川水系、加古川水系を通じた南北の交通によってこの地域の歴史がどう展開したかについての解明はまだこれからだと考えています。風土記班では湯山街道に位置する志深屯倉や多可郡を貫通する南北ルートに注目する研究や、淡路・阿波をも視野に入れた研究成果も出されています。最新の研究と連携しながら、河川水系と内陸陸路の視点から摂播・播但地域の地域間交通と地域社会のかかわりを『風土記』から読み解いていく研究を今後も深めていきたいと考えています。ご期待ください。