ひょうご歴史研究室研究員 中村 弘

『播磨国風土記』とは、奈良時代を生きていた播磨地域の人々が自分たちの地域のことについて記した地誌(地理書)です。地名の起原説話を中心に、当時の播磨各地での様子と、語り継がれていた神話や伝承が盛り込まれています。それにより、播磨の奈良時代の人々が播磨という地域、土地、風土をどのように認識していたのか、また、当時の風習、風俗がどのようなものであったのか、などの情報を今の私たちに教えてくれます。
播磨地域に現存する多くの山々の中で、風土記の中に名が残り、神の物語が語られている山は、当時の人々が日常の生活の中でその山を強く意識していたことの反映であり、そこに住む人々にとっての伝承は、自らの存在意義を伝え示す重要な装置として働いていたことでしょう。また、景行天皇や応神天皇などの天皇が多くの伝承に伝えられている地域は、当時の中央政権を意識し、あるいは古くに中央政権からの影響を強く受けた名残が残っているのかもしれません。

印南別嬢の墓とされる日岡陵

2013年から3年間、播磨の各地では、播磨国風土記編纂1,300年の記念事業が行われました。その事業の一環として兵庫県立図書館が企画された講演会で、私は「播磨国風土記のウソ、ホント」というタイトルで講演をしたのですが、「奈良時代の伝承が記録されているという事実はホントのことであって、ウソとかホントとかいうものではない」と、後になって風土記班のメンバーから批判(揶揄?)されることになりました。その時の講演内容は、風土記に記された奈良時代の伝承の中から、考古学の成果と照らし合わせることで歴史の真実を拾い出し、補完するというものでした。

風土記に「大石」と記された「石の宝殿」

そもそも、戦後の考古学の役割の一つに、文献史料によって築かれた古代史の再検証が挙げられます。文献史料によって描かれた歴史は、時の政権によって辻褄が合うように整えられており、神話や伝承についても、そのまま信じることはできず、検証が必要です。考古学では独自の方法論を用いることで、物的証拠による歴史を構築し、文献史学でも徹底した史料批判により、独自の歴史を再構築されてきました。 こうした中、当研究班では「播磨国風土記」を基本にして文献史学と考古学を結びつけ、播磨や兵庫県の歴史を浮かび上がらせるという新たな挑戦を行っています。 他の研究員たちと「共通の場」をつくって議論を重ね、広く播磨と周辺地域を俯瞰し、播磨国風土記の伝承を単なる誤りとして切り捨てるのではなく、なぜそのような伝承となったのか、なぜ記録されるものと記録されないものがあるのか、など、奈良時代の播磨人と同じ目線、主観に立つことにより、重層的な歴史を含む播磨国風土記を読み解くことができ、そこに映された新たな播磨像が見えてくるように感じています。 現在、設定された共通の場は「播磨の道」。文献史学と考古学が異なる素材を用いてどのような道を導き出すのか。いろんな角度から播磨の古代に光を当てていきますので、ご期待下さい。

古墳の立地と道(玉丘古墳)