ひょうご歴史研究室協力研究員 大平 茂

私は、祭祀考古学の手法を用いて『古風土記』・『延喜式』などの文献、そして宗教民俗学の援用により、古代祭祀・信仰分野の研究を進めてきました。

これは、学生時代に東京・渋谷にある國學院大學で学び、故大場磐雄博士の『神道考古学』に魅せられことが始まりです。さらに、故郷の兵庫県に戻ってからは県内の遺跡発掘調査を本務としたことから、幸運にも三田市奈カリ与弥生遺跡・赤穂市の堂山塩田遺跡・神戸市玉津田中の弥生~古墳集落遺跡・律令期の豊岡市袴狭遺跡群などで、定年までに石製模造品や木製模造品など数多くの祭祀遺物を発見することが出来ました。

ご存知のように、兵庫県は播磨・摂津・但馬・丹波・淡路の五つの地域からなり、古代の都城に近く地形的にも日本の縮図のようなフィールドを持っています。
縄文時代の土偶は少ないものの、石棒は但馬を中心に各地に存在しました。弥生時代の青銅器(銅鐸・銅剣など)についても、淡路を主に全国一位という出土数を誇っています(旧の五カ国の集まりなので、当然かもしれませんが)。また、古墳時代の墳墓出土の鏡・剣・玉類と併せ、これを模した石製模造品(有孔円板・剣形品・勾玉・臼玉など)、そして土製模造品と木製模造品の類が姫路市長越遺跡や東前畑遺跡などで出土しています。さらに、律令時代の木製模造品(人形・馬形・刀形・斎串など)も、日本海側の豊岡市を中心に日本一の出土量がありました。

しかし、定年後こうした発掘調査の成果は現地説明会と難解な報告書刊行のみで、県民の方々に地域の歴史(祖先の暮らし)の中で、何が明らかに出来たかを分かり易くお伝えしていなかったのではと感じていました。

そこで、今般私が究明する兵庫県の「原始・古代人の祭祀世界」を過去に発表した論文の中から一部ですが、大場博士の『まつり』に倣って纏め直し、一般向けの書籍『ひょうごの遺跡が語る まつりの古代史』(のじぎく文庫、2020年)として、株式会社神戸新聞総合出版センターの編集企画部より刊行の運びになりました(写真参照)。

まず、古代祭祀を通史として考えるため、播磨の縄文人と弥生人の間に断絶が無かったことを神戸市新方遺跡の弥生人骨発見例から摘出し、このことが縄文時代の祭祀具(石棒・土偶)を弥生時代前期まで残した理由と捉えてみました。そして、南あわじ市で石棒の消滅と銅鐸の出現が時期的に繋がったことにより、二つの祭祀の目的は配石遺構(淡路市佃遺跡)・銅鐸埋納地(神戸市桜ヶ丘遺跡など)から見た日の出・日の入り方向と周辺の秀麗な山(神奈備)を重ね併せた、季節(二至・二分など)を把握するための施設だったと分析します。

次いで、青銅器の埋納祭祀と古墳時代の鏡祭祀には、破砕された豊岡市久田谷銅鐸と卑弥呼の「鬼道」を絡め、大きな断絶があったと捉えました。さらに、古墳時代以降の祭祀には水に関わる大王の『禊・祓』儀礼が最も重要であったこと。もう一つ課題だったのが、古墳を始めとする墳墓の祭祀を祭祀遺跡の一つと捉え直したこと等です。

また、律令時代木製人形の手を有するものから持たないものへの変遷が、神仏習合の影響の結果と捉えたこと。特に、十世紀代では仏の顔を描いた人形を発見(鳥取県青谷横木遺跡)し、本地垂迹説であった仏教と神祇信仰が初めて対等となり、各々の固有価値観を堅持したまま共生するという神仏習合の新しい段階に入った証拠と位置づけました。さらに、但馬地域を含め日本海側に多く見られる人形の用途・目的を、昨今の新型コロナと同じ流行病などに対処するための水際作戦(臨時大祓)とも思い直してみました。

私自身も大変ユニークなものに仕上がったと考えています。是非、ご一読ください。

なお、ひょうご歴史研究室との関わりでは、『播磨国風土記』に関係する古墳時代から律令時代の祭祀を取り上げて、その成果を書きました「兵庫県内の祭祀遺跡・祭祀遺物の研究成果」