研究員のブログ
2020年5月22日
研究員のリレートーク
研究員のリレートーク 第2回 -たたら製鉄研究班から- 「私の鉄生産研究の第一歩」
ひょうご歴史研究室協力研究員 村上泰樹
ひょうご歴史研究室たたら製鉄研究班の協力研究員の村上泰樹です。
私を鉄生産研究にいざなってくれたのは、平成11、12年に発掘調査を行った宍粟市山崎町にある中世製鉄遺跡、小茅野後山(こがいのうしろやま)遺跡でした。
この調査では3基の製鉄炉を調査し、報告書をつくるなかで中国地方や近畿地方の鉄生産の研究者との交流ができ、彼らから色々な助言を得ながら少しずつ研究を進めていきました。
考古学の世界では「遺跡から学べ」とおっしゃる方が多いのですが、まさに私の場合はその言葉がぴったりでした。
途中、仕事が忙しくなり研究を中断しましたが、ひょうご歴史研究室からお誘いを受けたことがきっかけで、研究を再開しました。
研究を中断していた間、鉄生産研究は飛躍的に進展しており、現状の研究状況に追いつくのが精いっぱいの状態が続いています。
ひょうご歴史研究室研究紀要第3号(2018年3月刊行)は、たたら製鉄研究班メンバーが「播磨のたたら製鉄」をテーマに、研究の成果を公表することになり、私は佐用郡佐用町を中心に行われた古代の鉄生産を担当しました(「播磨北西部の古代鉄生産研究の現状と幾つかの視点」)。
この論文が研究を再開した私の第1歩となりました。
内容を要約すると、論文は県内の古代製鉄遺跡に関する考古学的な検討と製鉄関連の木簡史料を取り扱った文献史学的な検討の二部構成です。
今回は考古学的視点から検討した古代の製鉄遺跡について少しお話しします。
兵庫県を含む中国山地一帯は製鉄原料の砂鉄が豊富で、古代から近世にかけてたたら製鉄が盛んな地域でした。
当然、考古学、文献史学による研究も盛んにおこなわれておりますが、古代に限ると兵庫県内の研究状況はかんばしくありません。
県内の考古学的成果が中国山地の古代製鉄研究の俎上に上がることが少ないのです。
県内でも古代の製鉄遺跡が30遺跡ほど確認されており、一部は確認調査や発掘調査も実施されています。
私はこれらの情報が上手に発信できていないのではと考えています。
そこでこの機会に自分の勉強も兼ねて、県内の古代製鉄遺跡を集成し整理することがこの論文の一つのテーマです。
研究を進めるうちに興味深い製鉄遺跡があることがわかってきました。
佐用郡佐用町の大撫山山麓で見つかった7世紀中頃と考えられている製鉄遺跡、カジ屋遺跡です。
製鉄炉の周囲を馬蹄形に取り囲んだ排水溝をもつ構造が特徴です。
この構造は岡山県総社市千引カナクロ谷遺跡四号炉と類似しています。
製鉄炉の時期は6世紀後半と古く、日本の製鉄遺跡としては最古級の製鉄遺跡です。
『播磨国風土記』(以下風土記)讃容郡条に記された「鹿庭山(かにわやま)」(現在の佐用町大撫山に比定。写真参照)周辺の産鉄記事には、「別部犬」が製鉄を始め、その孫の代に孝徳天皇(645~654)の時(7世紀中頃)に鉄を貢進したことが書かれています。
「別部」は和気氏に通じ、当地の製鉄開発者は古代吉備地方の東部を支配した有力氏族、和気氏の「部民」と考えられています。
これと佐用町カジ屋遺跡と総社市千引カナクロ谷遺跡の製鉄遺構の類似性を考えると、当地の製鉄の始まりには古代吉備地域で発展した製鉄技術が関与した可能性を秘めています。
また、兵庫県の製鉄の開始された時期は、今のところカジ屋遺跡の7世紀中頃までさかのぼってもいいのではと思っています。
しかし今のところです。
『風土記』の記事によると、「別部犬」の孫の代に鉄を貢進したのですから、6世紀代とは言いませんが、少なくとも7世紀の初めには当地で製鉄が開始されていたことになります。
しかしまだその時期の製鉄遺跡は見つかっていません。
カジ屋遺跡の年代がこの時期までさかのぼるのか、あるいは別に古い製鉄遺跡があるのか、実に悩ましいです。
播磨の鉄生産の始まりと吉備地域との製鉄技術交流を実証することは兵庫県の製鉄研究の重要なテーマの一つです。
風土記に記載されたとおり鹿庭山の周辺には、古代の製鉄遺跡が集中しています。
この中に解明の糸口になる製鉄遺跡が潜んでいると考えています。
しかし資金と手間暇かかる発掘調査が必要です。
発掘したいのですが・・・。さらに悩みは深まります。