『播磨国風土記』研究班の今年度第2回目の研究会を、平成29年8月23日(水)、淡路市黒谷の五斗長垣内遺跡活用拠点施設にて開催した。
『播磨国風土記』研究班は、昨年来、淡路島日本遺産委員会、淡路島3市の文化財担当職員、地元研究者などの協力を得て、淡路島の古代史研究に着手しつつある。
第2回目の研究会は、そうした研究成果の発表の場として、また相互の情報共有を深める場として、『播磨国風土記』研究班と淡路島日本遺産委員会の合同企画として実施された。
参加者は14名(『播磨国風土記』研究班メンバー6名、日本遺産委員会関係者が8名)。
当日の報告と討議内容は、以下のとおりである。

▼報告内容
(1)大平茂氏(ひょうご歴史研究室共同研究員)「古墳時代の淡路島」
(2)定松佳重氏(南あわじ市教育委員会課長補佐)「古墳時代の淡路島南部の遺跡概要」
(3)伊藤宏幸氏(淡路市教育委員会教育部付部長)「淡路島の海人と製塩遺跡」
(4)坂江渉(ひょうご歴史研究室研究コーディネーター)「「国生み」神話の歴史的前提」

▼討議内容
(1)大平報告をめぐって
報告は、倭王権が5世紀以降、主要瀬戸内海航路を「明石海峡」ルートから「淡路南廻り」ルートに変更し、淡路島南側に中継基地(ミヤケ)を設定することにより、淡路を直接支配したと結論付けたが、議論はこの点に集中した。
①明石海峡ルートを封鎖した形跡はみられない、②考古学的にみると、淡路南端で製造された塩が、一旦陸路を経て三原河口部附近に搬出され、その後さらに海路で明石海峡附近に向かった可能性も十分ある、などの意見が出された。

(2)定松報告をめぐって
報告は、南あわじ市に所在する古墳時代の、木戸原・里丸山・嫁ヶ淵・九蔵の4遺跡の特質を詳細に論じた。このうち「硯」が出土するなど、官衙的様相をもつ嫁ヶ淵遺跡について議論が集中した。
この遺跡と古墳時代の木戸原・雨流遺跡とを合わせたこの地域の「要衝性」について定松氏は、当地と洲本市域との間では、現在でも中山峠を境にして文化的断絶を感じるから、古代の当地域は、南の鳴門海峡側と、西の三原川河口部との間で、頻繁な連絡や交流があった可能性が高いと答えた。

(3)伊藤報告をめぐって
報告は、これまでの発掘成果にもとづき、淡路島の製塩遺跡の分布状況と土器編年について詳細に論じた。討論では、津名町と三原川下流域に製塩遺跡が見られない事実を合理的に説明する必要があること、また8世紀代の「丸底Ⅳ式」(南あわじ市)の製塩土器は、宍粟市の家原遺跡出土の製塩土器とかなり類似性を看取できるから、今後、淡路島と揖保川水系を通じた宍粟郡、および但馬地域との「交流」について考えるべきとの意見が出された。

(4)坂江報告をめぐって
報告は、古事記にみえる「天の沼矛(ぬほこ)」で海水を攪拌して島を造るとの神話について、『播磨国風土記』揖保郡条の「天の日矛(ひぼこ)」が、「剣」で海水を攪拌し「宿る所」を確保したとの伝承との類似性に着目。
古代の淡路島~播磨灘の海人の間には、潮水を攪拌させる所作を伴う、かなり似通った祭儀・呪術が存在したのではないかと述べた。
討論では、海水攪拌の道具である「矛」と、海人遺跡で見つかる「棒状石製品」との関連性、海人の活動領域の広域性に眼を向けることの重要性などが指摘された。
報告討論の後、来年2月に開催予定の「淡路島古代史の魅力を探る -海人と国生み神話-」シンポジウムの方向性についても話し合われた(詳細は後日発表予定)。

(文責・坂江渉)