たたら製鉄研究班の今年度2回目の研究会を、平成29年9月10日(日)の午前中、館内会議室にて開催した(参加者は14名)。
また午後には、館内ホールにて開かれた地域講演会で、笠井今日子共同研究員が、「書き記された「たたら製鉄」」という講演をした。
午前中の研究会の報告と討議内容は、以下のとおりである。

報告内容

  1. 笠井今日子共同研究員「『宝暦六年鉄山一件』資料調査の中間報告(2)」
    笠井氏は、前回報告(6/11)以降に調査した、宍粟郡の高羅鉄山(=千種町河内付近)の請負をめぐる「鉄師」と幕府側(江戸の勘定所・須賀村の山方役所)のやりとりをめぐる史料を取り扱った。
    氏によると、天明年間(18世紀後半)、請負業者の鳩屋が、高羅山への製鉄施設の移設を目的とする申請をおこなったが、勘定所との間で、運上銀の算定額の根拠をめぐり齟齬・対立が生じ、交渉は難航をきわめたという。
    だか結果として天明9年(1789)、勘定所役人の現地視察(宍粟郡入り)により、問題は基本的に解決。
    それにより鉄山の請負慣行が承認されるともに、運上銀額は、年間1貫570匁に確定したという。
    また関連史料から、所在地不明のものも多々あるが、当時の宍粟郡内の「山」(鉄山・雑木座山など)が合わせて65箇所あったことを確認できると指摘した。
  2. 土佐雅彦共同研究員「戦前期の宍粟郡下のたたら鉄滓調査報告をめぐって」
    土佐氏は、自らおこなった宍粟郡内のたたら場の踏査調査の成果を踏まえながら、戦前期の1944年、軍部の命をうけ田辺健一氏が実施した「鉄滓」(スラッグ)の分布調査研究(学術調査報告論文は戦後1955年に公表)の意義と課題について報告した。
    土佐氏は、①田辺氏の調査は、作業経験のある古老からの聞き取りなども踏まえていたと考えられ、現在は消滅した遺跡も推定可能な貴重なものであること、②鉄滓調査からは宍粟郡内の累計製鉄量もある程度見積もることができ、1つの目安として5、6万トンという数値を得られること、③製鉄のための「炭山」の規模については、同じ時期の出雲と比較してかなり小規模であり、それが当地での頻繁な炭山移動につながった点などを指摘した。

討議内容

まず宍粟郡内のたたら場の所在地の把握について、2報告により文献史学と考古学の双方から接近できる可能性が出てきたこと、考古学的には戦前の田辺氏の調査が研究の出発点に位置づけられるという意義がみえたなど、2つの感想が出された。

ついでとくに笠井氏に対し、①近世前半から幕末までの郡内での操業場所の変遷をどうみるか、②運上銀の額は同時期の出雲と比べてどのように違うのか、③播磨での年間たたら操業の回数はどれくらいか、などの質問があった。
笠井氏は、①文献史料に限界があるが、たたら場の数は、江戸時代を通貫していた見通している、②10対1の違いがあり、播磨の運上銀はかなり高額と思われる、③年間操業数は60回程度と推測される(出雲では70~80回程度)、などと答えた。
討論の後、来年3月に開催予定の成果発表会「播磨のたたら製鉄研究の新展開」の方向性についても話し合われた(詳細は後日発表予定)。

(文責・坂江 渉)