赤松氏と山城研究班の第2回研究会を、平成29年9月11日(月)、上郡町で開催した(参加者は8名)。
当日の調査内容と討議内容は、以下のとおりである。

  1. 「赤松居館跡」試掘調査現場の熟覧
    上郡町「赤松居館跡」で実施されている試掘調査現場を視察し、調査を担当している島田拓共同研究員の説明を受けながら、遺構について熟覧した。
    遺構面は何れも中世段階の三面が確認され、最終第一面において大規模な整地が実施され近世絵図で「円心屋敷」と呼ばれる平坦な地形が形成されたことが判明した。
    ただし大規模な整地のやり方が場所によって著しく異なっているようにみえることの評価、第二面・第三面がどのトレンチでも明瞭に確認できる状況ではないことの意味、担当者が地山・焼土層とみなしている部分の妥当性、などについて出席者から意見が寄せられた。
    残された調査期間でしっかりした断面図を作成すること、疑問点について土層の断ち割りを行うこと、次年度に向けて遺跡の評価が確定できる部分を押さえ、将来に向けての展望をもつこと、が課題として指摘された。
  2. 出土遺物の熟覧
    上郡町郷土資料館会議室で、本年度および昨年度の「赤松居館跡」から出土遺物のうち接合を終えたもの、および近隣の山野里宿遺跡出土遺物について熟覧し、前後関係・年代について検討した。
    第二面出土の備前焼については、現在の編年観で14世紀末から15世紀初頭に相当するものであることが確認された。
    土器については第一面出土のものは京都系を模倣した15世紀代のものだが、山野里宿遺跡出土のものよりは古いと考えられること、第二・三面は在地色がより強いとの意見が出されたが、土器に詳しい専門家の意見を早急に聴取する必要があることが確認された。
  3. 大村拓生報告と歴史文化フォーラムについて
    まず大村拓生歴史研究推進員が、「赤松氏の系譜意識 -その後の史料収集から-」と題する報告を行い、①「白旗城」合戦を契機に赤松地区が赤松氏と足利将軍家との結びつきを象徴する意味を有したこと、②赤松地区に雪村友梅を開山とする禅宗寺院が建立されることで、赤松地区のもつ意味が禅僧の言説の中で再生産されていくこと、③その論理が嘉吉の乱で滅びた赤松氏再興の際にも、実際に重要な役割を果たした天隠龍沢のような禅僧によって継承されること、④その延長線上に延徳二年に「赤松旧宅」で実施された赤松政則による将軍足利義尚の肖像供養・犬追物があり、文献からは「山ヲ引ナラシテ」造成された犬馬場という表現が第一面の整地層と対応すると考えられること、を指摘した。
    それを受けて、同じく文献史料では明瞭な赤松義則による守護屋形整備の痕跡が現状では確認されていないことの意味、応仁の乱以前の守護屋形の評価などについて、議論がなされた。
    その上で文献史から赤松地区と居館に関する史料を整理した大村講演、発掘調査成果を整理した島田講演、現状では明確な居館遺構が確認されていないため、山上雅弘研究員の歴史文化フォーラム(11月18日開催予定)の講演タイトルは、「南北朝・室町期の守護拠点」として西日本各地の守護拠点の状況と比較して赤松地区を位置づける、という方向性などが確認された。

(大村の報告書にもとづき坂江渉が作成/文責は坂江)