2018年2月4日(日曜日)

「淡路島古代史の魅力を探る」シンポジウムの結果

ひょうご歴史研究室と淡路島日本遺産委員会の共催行事、「淡路島古代史の魅力を探る -海人と国生み神話-」シンポジウムが、平成30年2月4日(日)午後、淡路市立サンシャインホールで開かれた(兵庫県立考古博物館が後援)。
このシンポジウムは、ひょうご歴史研究室と淡路島日本遺産委員会が共同して取り組んできた、淡路島の海人と国生み神話をめぐる研究成果の発表の場として企画された。

当日は、まず淡路島日本遺産委員会を代表した竹本通弘洲本市長の挨拶の後、藤田淳研究員(ひょうご歴史研究室研究員/考古博物館学芸課長)を総合司会として、以下の順で進行した。

講演スケジュール

講演①

「古代の淡路島と海人」古市晃(ひょうご歴史研究室客員研究員/神戸大学准教授)

講演②

「考古学からみた淡路島の海人」伊藤宏幸(淡路市教育委員会文化財活用等担当部長)

講演③

「国生み神話と古代の海人」坂江渉(ひょうご歴史研究室研究コーディネーター)

3名の講師によるパネルディスカッション

司会コーディネーター:垣内章(ひょうご歴史研究室客員研究員)、定松佳重(南あわじ市教育委員会社会教育課課長補佐)

閉会挨拶

藪田貫館長

パネルディスカッション(約1時間)

約1時間かけておこなわれたパネルディスカッションは、(A)海人の定義について講師3人がそれぞれの意見を述べ合う、(B)講師3人が他講演についての疑問を出して討議する、(C)会場からの質問に答える、という順序でおこなわれた。

(A)司会から出された「古代の海人」の捉え方については、単なる漁撈の民ではなく、かなり機動力・軍事力を持つ航海民とみるべきとの意見が大勢を占めた。
『肥前国風土記』の「白水郎」等の記述にもとづき、司会からは、海人=「異俗の民」というイメージもあるのではないかとの意見も出された。

(B)講師間相互の質疑については、製塩作業を海人の生業として特化して見てよいのか(古市→伊藤)、砂州の祭りは「民衆共同性」と「政治性」の両側面を持つとの話をもう少し具体的に述べて欲しい(伊藤→坂江)、阿波の海人の広域ネットワークを考える際、「ワナサヒコ」資料を使える可能性はあるが、「ミマツヒコ」伝承については疑問がある(坂江→古市)、などの意見が出され、各講師がそれぞれについてリプライした。

(C)会場からは、①「国生み」神話は何故淡路を舞台とする物語になったのか、②イザナギ信仰が淡路独自のものと考える根拠は何か、③淡路の砂州の祭りと王権の「八十島祭」はどのように関連するのか、④淡路市舟木にある「石上神社」は物部氏と関連すると見て良いのか、⑤南あわじ市の5世紀代の雨流遺跡と木戸原遺跡の位置づけが、文献史学の成果とうまくかみ合っていない、⑥古墳時代の淡路が王権の有力拠点となっていたという議論と、「叛乱」の拠点になっていたという議論の意味が不明、などの意見や疑問点が寄せられた。
 それに対して、①淡路の海人が王権の潜在的な軍事力として相当高く評価された結果ではないか(坂江)、②「イザナギ」の神名を帯びる式内社は各地にあるが、そのうち津名郡の「淡路伊佐奈伎神社」のみが、唯一「名神大社」となっている点が根拠(坂江)、③砂州状の島々が群を成して浮き沈む光景は、当時の地方の人びとにとっても、王権内の人びとにとっても、「活力」や「生命力」を得られる源泉という、共通する認識があったことが大きい(古市)、④舟木の石上神社は、大和の「イソノカミ神宮」とは無縁のもので、本来は磐座信仰の一形態であり、野島の海人の山に対する信仰と関連する可能性がある(坂江)、⑤今後さらに分析を深めていきたい(古市・伊藤)、⑥講演では「叛乱」拠点、王権との「対立」側面をやや強調しすぎた(古市)、などと答え、討論は終了した。

考古博制作のパネル展示コーナーの写真
▲考古博制作のパネル展示コーナー
開会直前の会場内風景の写真
▲開会直前の会場内
開会挨拶(洲本市長)の写真
▲開会挨拶(洲本市長)
古市講演の写真
▲古市講演
パネルディスカッション風景の写真
▲パネルディスカッション
閉会挨拶(藪田館長)の写真
▲閉会挨拶(藪田館長)

(文責・坂江渉)